心のこもった手紙


                      リマト川の川辺では楽団が演奏していました。
                                           (画面の右端クリックで拡大)
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                                           心のこもった手紙 (上)
                                           第Ⅰテモテ1章1-2節
      

                              (1)
  今日から暫く学ぼうとしているテモテ第1、第2、それに続くテトス書は牧会書簡と呼ばれます。差出人はいずれもパウロとなっていて、彼が弟子たちに、教会を造り上げていく為に何に留意し、何が大切か牧会上のアドバイスを与えたものです。

  初代のキリスト者から、第2代目の世代に入ろうとする移行期で、長老や監督や奉仕者と言った教会の組織が作られようとしていた時期で、監督や長老はどういう人であるべきか、彼らは何に留意すべきか、必要な資質は何かなどをアドバイスしています。

  6章までの短い手紙です。礼拝では少しずつ進みますので、ご自宅でサッと通してお読み下さるとよく理解して頂けるでしょう。

  時代はヘレニズム時代です。一言で言えばローマ帝国の中でギリシャ文明が花開いた時代です。その時代に教会はどうヘレニズム文化に接すればいいかということも語られています。(学問的には著者問題がありますが、一応この書が書き記している通りパウロとしてお話致します。)

                              (2)
  宛てられたテモテは、現在のトルコ、当時の小アジア地方のリストラという町出身のまだ若い青年キリスト者でした。お母さんはユダヤキリスト者で、母方の祖母もクリスチャンでした。だが父親はギリシャ人で異教徒でした。テモテはパウロの感化を受けて信仰に入り、パウロの助手になり、同労者となり、片腕となった人です。やがてエフェソの監督になったとも言われています。

  手紙が宛てられた動機の一つは、「異なる教え」という言葉が数回出てきますが、教会の中に入って来た間違がった教え、キリストに根ざさない教えに対する警告です。

  その不健全な教えというのはグノーシスの影響でしょうか、肉体を持つ世界を悪と見る考えに基づくもので、結婚を禁じたりある種の食べ物を禁じたりしました。彼らは禁欲を人に説いています。だが実際生活では自分自身に対する禁欲的な厳しさはなく、高慢で、議論や口論を好み、妬みや争い、中傷や邪推などがやまない在り方であったようです。

  テモテへのアドバイスの中心は、キリスト・イエスの良い僕であれという事です。そして自分が任されている信仰者の群れに対して、愛情を注ぎ、しっかりと責任を担うことを勧めています。

  テモテは若者ですが、年齢が若くても、人に媚びたり、反対に権力的な態度で上から押し付けたりせず、愛を持って人々に仕え、キリストの御言葉によって説得し、群れを牧会していくようにという事です。人々の苦難や弱さ、罪などを自分の事柄として考え、自分の言葉で彼らにキリストの福音を語っていくことを勧めています。ですから心のこもった手紙になっています。

  パウロは透明な思いで、思いやりを持って、落ち着いて、相手の心の奥深くまで入っていく。伝道者テモテを一人前の伝道者に育てていこうとするパウロの思いがここにあるといっていいでしょう。

  現代社会でも、一人の人間を一人前に育てて行く責任を担っている人がいるなら、これらの牧会書簡から教えられる所が多くあるでしょう。

                              (3)
  今日の箇所はパウロの挨拶です。もう一度読みますと、「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエス使徒となったパウロから、信仰によるまことの子テモテへ。」自己紹介的な挨拶の言葉で、抽象的でサッと読み過ごしてしまいそうですが、彼は自分を、「神とキリストによって任命されたキリストの使徒である」と言います。

  彼は、自分によって使徒になったのではないと語るのです。この世には、現在の自分があるのは自分のたゆまぬ努力によるのだ、自分の熱意、自分の才能、自分の…と、自分を前面に出す人たちがいます。しかしパウロは、自分が使徒となったのは自分の力ではない。自分の勝手な思いや主観ではない。神とキリストの憐れみによるのであり、神とキリストに捕まえられて使徒として任命されたのであると語るのです。

  使徒という言葉は、元のギリシャ語では「前に投げ出された者、遣わされた者」を意味していますが、自分は神とキリストによって人々に遣わされた者です。背後に神とキリストが立って下さっていますと書くのです。

  パウロの落ち着き、彼の使命感は個人的なものではありません。神とキリストに由来し、そこから発生しているものでした。

  彼は、私たち信仰者の救いの根源は神にまで遡るものだと考えています。救い主キリストを遣わされた神、そこに救いの大本があるという事です。言葉を変えて言えば、私たちの救いは決して底の浅いものではないということです。

  言っていることがお分かりでしょうか。普通は「救い主」と言えばキリストです。救い主キリストあるいは救い主イエスと言います。だがここで彼は、「救い主である神」というのです。ということは、私たちの救いはキリストから来ますが、それは父なる神にまで遡ると見ているのです。救いの重厚さ、幾重にも城壁で囲まれた堅固な城のような、巌のような救いの確かさを語りたかったのです。

  余り良い例ではありませんが、戸別訪問で何かを売りに来たら、皆さんどう言って断られますか。「主人に聞いて見なければ分かりませんわ」って言うでしょう。一旦ワンクッションを置く。事柄によっては、「息子に任せていますから」と言う人もあるでしょう。自分は最終決定権を持っていないと言って断わるわけです。実際は、嬶(かかあ)天下でも、そう言うのじゃありませんか。ご主人の方も、「今、家内がいませんので」と言って電話を切ったりします。これとそれと同じではありませんが、パウロの場合は、救いの奥深さを、キリストの背後におられる神にあるという風に言い表したのです。

          (つづく)

                                       2013年11月3日


                                       板橋大山教会 上垣 勝



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