社交を超える生活
チューリッヒ水上スポーツ・フェスティバルのポスター
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上座(かみざ)に座る人 (下)
ルカ14章7-11節
(3)
さて、そのことに関して、イエスは招いてくれた家の主人にこう言われたのです。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
お返しができる人を招いてはならない。むしろ、お返しできない人を招きなさいと言われた。極端に聞こえるでしょうか。
ここでイエスが、誰に言われたかが重要な鍵です。食事に招待してくれた家の主人に言われたのです。彼は14章1節にあるように、ファリサイ派の指導者で、リーダー中のリーダー、サンヒドリン、ユダヤ最高議会の議員、有力な国会議員です。
国会議員というのはテレビとか国民に見られている時は腰が低いですが、見知らぬ私たちが1対1で会うと中々威張って、高飛車な人が多くいます。だがイエスは彼に恐れることなく話された。彼をも愛されるから本当の忠告をされたのでしょう。イエスは、ああいう人間はダメ、こういう人間はダメと、そんな狭さや偏見を抱かず、愛をもって接されるから、彼に一番必要なことをズバッと語られた。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」
一言で言えば、社交生活を越えよということです。「友人、兄弟、親類、近所の金持ち。」それらによって代表される人々は、ファリサイ派の指導者、最高議会の議員、そういう地位・権力を持つあなたとの交わりを求めている。社交である。社会的ステイタスを求めてのことであり利益のためである。
無論イエスは社交を完全にダメだと言っておられるのではない。リーダー中のリーダーであるあなたに必要なのは、社交でなく、社交を越えて真に人との出会いの場をつくる働きをなすことである。そういうコミュニティを作ることである。真心(まごころを)持って真に神を礼拝し、人生を社交だけで終わってしまうな。
私たちもそうです。教会は社交場ではありません。神との出会いであり、神を求める人たちとの真実な出会いです。そういう意味では、この議員に語られていることは私たちにも語られていることです。
「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」――何故でしょう。
ある方は沢山の兄弟の中で育ちました。貧しさの中で、一人が病気になると母親は他の子どもをほったらかしにして、この一人のために尽くしたといいます。当時は結核が流行っていました。卵や牛乳など、栄養ある食べ物が手に入ると病気の子に与える。時にはお菓子も他の子にくれずに、病気のその子に与える。どうしてって思ったそうです。
だが成長して分かったのは、今、助けが必要なその病気の子に、心を尽くし、力を尽くし、助けが必要な子どもから先に手を尽くしている母親の姿であったというのです。
「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」とは、まさにそういうことです。イエスは社交で生きておられないのです。イエスは今、最も助けを必要な者に手を差し伸べられる。だから、この議員にまた私たちに、自分の後に従って同じことを行いなさいとおっしゃっているのです。
ファリサイ人のリーダー中のリーダー、最高議会の議員。彼は上に立つ人であり、当然上座に座れる人であり、座る人です。その彼に、「上に立つ人は仕える人であれ。上座に座る人こそ、僕のようであれ」と言われたのです。
そのようにしてあなたの命を社会の底辺から輝かせなさい。小さい者を愛し、彼らに仕えることによって命の火を灯しなさい。そこにあなたの人生の使命がある。そこにあなたの命を使え。地の塩として、世の光として生きよ。喜びを持って謙遜であり、喜びを持って人に仕える。神を信じる指導者の使命はここにあるという事です。
「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」目に見えぬ方のみを仰ぎ見て、そのお方にしているかのようにお返しできない人々に尽くしなさい。あなたが必要なのは、ただこの方を心に覚えることだけです。この方を覚えて自分を与える人になりなさいという事です。
洗礼を受けるということは、洗礼前とで違いが生まれます。もはやお客様ではないという事です。与えられる人から、与える人になるという180度の転換です。受けるよりは、与える方が幸いだという生活への転換です。
この方を忘れるな。お返しができない人への慈しみとまことがあなたから離れないようにせよ。それを、心の板に書き記すがよい。主を常に覚えてあなたの道を歩きなさいという事です。
そして最後に、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」と言われました。目に見えぬお方を仰ぎ、その方のみを覚えつつ、最後の報いを待ちつつ、人々に仕えなさいということです。言葉を変えれば、「天に宝を積め」ということです。
(完)
2013年10月27日
板橋大山教会 上垣 勝
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