謙遜も一つの武器


                  流れの速いリマト川で水上スキーの競技をしていました。
     画面中央部の山形のプレートから空中に飛び出し着水してまた左側からチャレンジしていました。
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                                        上座(かみざ)に座る人 (上)
                                        ルカ14章7-11節



                              (1)
  「イエスは、招待を受けた客が上席(じょうせき)を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」とあります。

  客とあるのは、一人の客でなく複数の客のことです。複数の客が我先に上席を選んでいる。これを読むと、2千年前の古代社会とは言え、パレスチナでは席の譲り合いはなかったのか。むき出しの競争心をもって上座(かみざ)を奪い合っていたのかと思って違和感があります。今の日本ではこういう粗野な光景は余り見られません。

  ただ戦後まもない日本社会を思い出しますと、例えばバスや電車の整列乗車はほぼなかったと思います。譲り合いも今ほどはなかった気がします。私の父の一番古い思い出は、大阪の難波というJRのターミナル駅で電車に乗った時、やはり皆が我先にと乗って座席を取り合い、父と他の人がケンカになりかけた場面でした。父のあれほど怒った姿を見たのは初めてでした。当時、窓から自分のモノを投げ入れて座席を確保する姿がありました。まだ戦争の傷が癒えていない、みな心に大きな傷を持っていた時代で、皆ガツガツして、我先にという光景があちこちで見られました。

  ですから時代や場所がズレルと全く別の顔を見せるのが人間社会ですから、この箇所のような光景は過去の日本でもあったかも知れません。

  ただイエスがご覧になった客は一般の客ではありません。3節にあるように、律法学者やファリサイ人たち、社会のリーダーたちです。一般人はもっと謙遜だったかも知れません。ですからマタイ23章で、彼らについて、彼らは「宴会では上座(じょうざ)、会堂では上席に座ることを好み、広場で挨拶されたり、先生と呼ばれたりすることを好む」と言われたのです。競って上座を選ぶのが彼らの習性になっていたのでしょう。

  それを見たイエスは、譬えでこの話を話されました。「婚宴に招待されたら、上席(じょうせき)に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

  「上席(じょうせき)」とあるのは、英訳では名誉ある座席とか、一番いい場所、最高の席などと訳されています。日本人には上座(かみざ)、下座(しもざ)と言った方が分かり易いでしょう。

  いずれにせよイエスは、婚宴に招待を受けたら末席に行って座りなさいと言われたのです。婚宴というのは、とかく序列が問題になります。だが末席にいて、家の主人からもっと上座(かみざ)にお移りくださいと言われたら、みんなの前で誉れを受け、面目を施すことになると言われた。

  ただイエスの話を単なる人生の智恵、世渡り術として教えるなら、これはまた一種の偽善になります。皆からあの人は謙遜だと褒められるために、意図的に下座に着く。それは人を欺く欺瞞的な生き方になるでしょう。

  大企業の最近の新入社員教育では上座はどこかを教えるそうです。上座、下座を知らない。社会生活で常識がないのも困りますが、この世の知恵では謙遜も一つの武器になります。武器として上座下座を教えるのだとすれば悲しいことですが…。

  毎月の誕生カードの寄せ書きを書くときに、たまに前から書かず、左端から書いていることがあります。後(あと)から書く人は書き難(ずら)いったらない。あれは今後はよしましょうよ。教会では序列などありません。前も後もありません。自分が初めなら右から書きましょう。この種の謙遜は教会とは無縁です。キリスト者は人との前後関係でなく、神の前で真っ直ぐ真実に生きればいいのです。

  申し上げたいのは、イエスがここで教えられるのは欺瞞的な生き方でなく、イエスの真意を理解することが大事だということです。

                              (2)
  「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」「高ぶる者」とは、「自分を大きくする者」です。高められることを期待して謙遜であれというのではありません。そういうこの世の浅知恵を教えておられるのではありません。

  イエスはそうではありません。神の前では、この世の常識は崩され、逆転されると言われるのです。単なる謙遜でなく常識を逆転する思想です。

  知人に小物の日用品の商売をしている人がいます。彼は時々、「今日はすごく儲かった。200万円の売り上げがあった」などと言って来ます。すると、私は内心「凄いなあ」と思ったり、「負けたア」と思ったり、能力差のようなものを感じたりします。また立派な邸宅に住み、外車、スポーツカーなども含め数台がガレージにあると、凄いなあ、どんな人だろうと思ってしまいます。その上、勲何等を貰ったとかとなるとまた色々な思いを持ちます。

  しかし、人間として真に価値が上かどうかは分りません。別の知人はある国から勲章をもらいました。凄いです。この世では成功者として、立派な人として崇められ、尊敬を受け、当然上座に座るようになり、自分でも上座が当然と思っていたと思います。ところが上り詰めたと思ったら、身から出た錆のようなもので大きな事件を起こしました。現代も酒と女と博打とカネは身を持ち崩すもとです。

  この世で上座に座る人が神の前で上座に着くとは限らない。むしろ低い所で苦労し、懸命に働いている人が上座に着けられるかも知れません。この世の判定が最終の判定ではありません。絶対評価にはなりえません。

  だからこそイエスは、社会のリーダーである彼らに、「だれでも高ぶる者、自分を大きくする者は低くされ、へりくだる者、自分を小さくする者は高められる」とおっしゃったのです。

  神が最後的に決着をつけて下さるから、この世の判定に囚われず、神の前に喜びを持って謙遜に生きよということです。高くされる、低くされるに振り回されず、神を仰いで、喜びを持って仕える人になれということです。リーダーこそ、そうであれ。

  ただそうは言っても、中々心の底から喜びを持って仕える人になれない。頭ではそれは分かり、形は出来るが、心の底からそうなり切れない。そうなろうとすればするほど、なり切れない自分に苦しくなる。それが私たちの真実な姿です。ただそれが分かるだけでも一つの前進ですが…。


        (つづく)

                                        2013年10月27日

                                       
                                        板橋大山教会 上垣 勝



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