命の水が湧き出る泉


     チューリッヒの水上スポーツ・フェスティバルに集まった観衆。右側がチューリッヒ湖。
        橋の向こうの教会の塔の前にツウィングリの立派な銅像が立っていました。
     が、その正面にフェスティバルの移動式公衆便所が幾つも設置されていてガックリ来ましたね。
                               ・       写真右下クリックで拡大。




                                          命の水が湧き出る泉 (下)
                                          ヨハネ4章13-15節



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  しかし、イエスはここで止まらず、これに加えて、「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃったのです。イエス悲観主義者でも厭世家でもなく、渇く私たちを健全にし励ましを与えるリアリストです。

  決して渇かないとは、世にある限り問題が次から次へ襲って悩みは尽きませんが、このお方から水を汲む限り、どんな問題や試練が起こっても、乗り越える力を授けて下さるからです。一時は渇いても、イエスの所に行けば渇きは癒され、また立ち上がって向かって行くことができる。「決して渇かない」と強調されたのは、キリストと真に交わりを持つと決して渇かないからです。

  また、その水を飲む時、その人の内で「泉となる。」泉となって湧き出す。泉ほどしぶとく湧き出すものはありません。小学生ころ、近くに砂を持ち上げて泉が湧き出していました。泉は塞いでも脇から湧き出します。友達と手で塞ぎますがすぐ横から湧いてきます。そこを塞いでもまた別の所に湧き出します。コンクリートで塞げば、やがてそれを持ち上げて湧きます。泉は止められても尽きぬ力を持っています。

  原発の汚染水も次から次へと泉のように湧いて困りますね。残念にも、コントロールはパーフェクトではない。汚染水は漏れて不安を与える水です。だが、キリストが授けられる水は命の水です。希望の水。人々に新しい命を与え、清い泉となって湧き出るのです。永遠の命に至る水が湧き出る泉となるというのです。

  永遠の命の水が湧き出る泉。そんな所があるのかと考えながら、この近辺を歩きました。私は変ですね。三田線の志村に行く途中に泉町という所があります。言葉通り昔は泉が湧いていた。だが今は泉は涸れ、祠があるだけでした。

  大山ハッピーロド、仲宿商店街石神井川のほとり、用があってサンシャイン通りも歩きました。そんな泉はある筈がないのにあちこち歩きました。牧師は実に暇な様子です。

  ところがある所で目を上げたら、お寺に「南無阿弥陀仏」とありました。南無阿弥陀仏。南無とは信じます、帰依しますというサンスクリット語です。阿弥陀はアミター・バに由来します。意味は「永遠の命」、寿命が無量ということです。ヨハネ福音書には、永遠の命と共にまことの光とか人に命を与える光という言葉が出てきますが、永遠の光はアミター・ユです。南無、信じます、帰依します。永遠の命であるお方に。板橋の道端に南無阿弥陀仏とあって、永遠の命があったのです。

  それもその筈、今日は時間がなく詳しく申しませんが、これが出てくる浄土三部経はキリストの百年から150年後に成立したものだからで、シルクロードを通って影響を与えました。アミター・バ、アミター・ユという言葉はそれ以前の経典に出てまいりません。

  永遠の命は、永遠なる方・まことの神との命の交わりにより与えられるのです。それは今、ここで、この瞬間にも永遠の命に至るものです。それは永遠の時間の長さというより、それを超えた永遠の質、永遠なる神の命につながる質的深さをもたらすものであり、その水を飲む者は今、永遠性に与って生きるのです。ですから最初に、この方を知りこの方に帰依すれば、キリストの香りを放つオーラが出てくると申し上げたのです。永遠性を帯びたキリストの香りが、キリストのオーラが、喜びや感謝、平和や真実、信頼や希望などとなって湧き上がるのです。

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  この水は、英語の聖書ではリビング・ウオーターとか、ライフ・ギビング・ウオーターと訳されています。死んでいない生きた水。活き活きと迸(ほとばし)り流れて人に命を与える水という意味です。キリストがお授け下さる水は、永遠の命に至り、愛の命となって湧き出す泉です。

  現代社会はパンに飢えることでも、金がないことでもなく、無論職を失って貧困で困っている人も多数ありますが、愛の泉が涸れている所に問題の中心があります。愛の泉が涸れ、先に申しましたように欲の泉が湧き上がっているのです。罪が湧き上がって氾濫しています。ですから日本社会の中に、愛の泉となって流れ出す香り高い文化が生まれることがぜひ必要です。

  問題は物ではありません。経済ではありません。むろん物も経済も必要です。思想。これも必要ですが、それでもありません。外から与えられるものではありません。キリストが与える水を飲む者は、皆さんの内部、その存在の深い所から、生き生きと活きた命の泉が、キリストのオーラを伴って川となって流れ出すのです。

  ぜひこの水を飲んでいきましょう。命に至る水が湧いていても飲まれないなら、そこには泉は湧きません。どんなに優れた名医に診察されても、処方された薬を飲まなければ病気は治らないのと同じです。

     (完)

                                        2013年10月20日

                                       
                                        板橋大山教会 上垣 勝



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