なぜ魂は渇くのか


                      美しい出窓が多いチューリッヒの古い街並。
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                                          命の水が湧き出る泉 (上)
                                          ヨハネ4章13-15節



                               (1)
  今日はあいにくの雨になりましたが、昨日は教会の前はバザーでごった返しました。4時間でほぼ6百人が来てくださいました。今日もバザーがあるので短いお話をさせていただきます。短い話というので、これは1節から始まるイエスサマリアの女の出会いの話ですが、長い話は割愛しまして、中心聖句だけをお読みいただきました。

  「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とありました。

  これは、聖書とキリスト教信仰の根幹を成す言葉の一つです。今日は鬱陶しい日ですが、皆さんは良い日に招かれています。この根幹を掴み、キリストに帰依なさるならば、皆さんの存在そのものが神に祝福され、涸れることのない喜びが湧き上がることになるでしょう。一言で言えば、キリストの香り、キリスト教では余り使いませんが、もし使えば、キリストの馥郁たるオーラが湧いて来ると言っていいでしょう。しかも、そのオーラは、世の何ものによっても消されぬオーラです。

  これはイエス・キリストが、ユダヤエルサレムから弟子たちとガリラヤにお帰りになる途中、シカルの町に立ち寄り、古くからある「ヤコブの井戸」の側でサマリアの女に語られた言葉です。古くとは、ほぼ1,700年間多くの人が恩恵を受けて来た、今からだと3,700年前の井戸です。1,700年も使われて来た井戸は恐らく世界でも稀なものです。

  その由緒ある多数の人に恩恵を与えて来た井戸ですが、イエスサマリアの女に、「この水を飲む者は誰でもまた渇く」とおっしゃったのです。

  すぐ核心に入りますと、「この水を飲む者は」とありますが、これはヤコブの井戸水だけを指していません。またH2Oという物質だけを指すものではありません。私たちが体と心の渇きを癒すために取る、物質的・精神的・文化的・科学的・社会的、地上の諸々のものです。歴史的に由緒あるものも、魅力的なものも、現代的なモダンなもの、画期的なもの、流行の最先端を行くものも、全てが「この水」で象徴されています。

  現代社会は欲望民主主義だと言われます。欲望が全開した時代です。欲望の元栓が解き放たれた。だが結果は、「人はどこまでも満たされない」のです。しかも自分の欲望に疲れる程です。一時は感激します。その味、その新鮮さに魅了されます。だがすぐ飽きます。一時は心癒されます。だがすぐ渇きます。底が抜けた井戸のように欲望が更に増大していく。それが現代です。

  何故でしょう。それは、それらが問題だからというより、神に造られた私たち人間自体が、渇く存在であるからでしょう。生命の源である神を知り、魂の非常に深い所から満たされ、平和を授けられなければ、魂の渇きは止まりません。ところが人間は神を求めず、神の代用品を作ります。お金も地位も、賞賛も感謝されることも、神の代用品になることがあります。宗教やキリスト教といえど神の代用品になることがある。教会と神は違います。キリスト教とキリストご自身とは微妙なズレがあります。私たちにとって大事なのは神との出会い、キリストとの活きた交わりであります。じゃあ教会は不必要かというとそうじゃあない。自分がキリストと出会っていればいいという人が日本に多くいますが、それだと自分勝手な解釈をして自己流になる。私たちは多くの人の中で糾され、ああそうか、という風に気づかされるわけで、交わりの中で信仰は養われるのです。私たちは真理のカケラです。真理全体になれっこがない。自分こそ真理の全体だと言い張った瞬間、その主張は真理でなくなります。神は、私たちの魂が神以外のものによっては、真実に満たされないようにお造りになっているから渇くのです。造りがそうなっている。だから、代用品では満たされないのです。

  今は国連といっても、各国の利害が絡んで初期のスピリットが随分失われているとは言え、歴代の国連事務総長は非常に高潔な人物でした。中でも、第2代事務総長ダグ・ハマーショルドは群を抜いた方です。遺稿集を読みますと、国際舞台で活躍しながらパスカルの「パンセ」やシモーヌ・ヴェイユの書物を思わせる深い思索に満ちています。

  こういう文章があります。「非常に有能で、自らの義務に忠実だ、―それに野心に満ちている―という門構えを見せている人でも、中に立ち入って見ると、どれほど死んでしまっていることがありうるものであろうか。」

  外と内で違う人間の門構えです。有能で忠実で大きな志を持った人間が、中に入ってみると既に魂が死んでいるということがあるというのです。

  彼は警世家ではありません。世に警告を与えるために書いたのではありません。出版など毛頭考えていなかった。自分のために書いた日記です。ここで言われているのは他人のことでなく、ハマーショルド自身の外と内のギャップです。国連事務総長である彼は自分の内に潜む罪を見逃さなかったのです。心の汚れを見逃さないのです。問題にするのです。なぜなら、イエスが言われたように、隠れているもので露わにならないものはないからで、自分の内面は自分が責任を負う国連の行動に反映するからで、それは直ちに世界に影響を与えるからです。それほど真実を生きた信仰の人でした。

  彼が言おうとしたのは、人間は外面は少しも渇いていないように見えても、内に入るとどれほど渇いている存在か。また汚れた存在かということ。神の赦しと憐れみなしには真の喜びは来ない存在だということです。彼はそういう真実なものを凝視したのです。

  若者たちがみんなで集まってワイワイ言って騒いでいます。皆、陽気で元気です。傍から見ていると和気合い合いしている。ところが、「じゃあ」と言ってみんな分かれて家に帰り、自分の部屋に入っていると急に泣き出したり、孤独に陥ったり、激しい渇きを覚えたりすることがあるわけで、そこにも外と内の問題があります。

  こう言う意味で、この世に生きる私たちは、皆渇いています。イエスが「この水を飲む者は誰でもまた渇く」と言われたのは、こういう深い内容を持った発言です。

     (つづく)

                                        2013年10月20日

                                       
                                        板橋大山教会 上垣 勝



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