マララさんから考えました


                聖母教会の前でアトラクションがあり、屋台が沢山出ていました。
                ケバブを買ったら串の先に丸いパンが刺されていました。うま~い。
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                                              愛と法 (下)
                                              ルカ14章1-6節



                              (4)
  というのは、現在も厳格なイスラム法の下にある人たちは、まさに法に縛られて、それを犯せば人民裁判によって首を撥ねられることすらあります。法をファンダメンタルに超保守的に捉えて、人間は法から自由になれません。

  去年の今頃、皆さんにお話したマララさんが回復し、1年の間に大きく成長して、暫く前、7月に国連でスピーチしました。殆ど人が知らないパキスタンの田舎町出身の僅か16歳の少女が、今、世界の舞台で希望と勇気を与えるシンボル的存在になっています。彼女の勇気が弱い人々を励ましているのです。

  昨年触れましたし、最近のニュースでご存知でしょうが、昨年、15歳の彼女は学校帰りのバスの中に乗り込んで来たタリバンの少年兵から、至近距離から拳銃で撃たれました。3発の弾丸中1発が当り、普通は即死ですが、脳を僅かに逸れて左の眼球を貫いたのです。たまたま確かイギリス人外科医が町にいて、適切な手当がなされ、優れた軍医のいる病院へヘリコプターで緊急搬送され、やがて手術のためにイギリスに渡り一命を取り留めました。今、すっかり回復してイギリスの女学校に通っています。

  彼女は国連で、「学校教育は世界の一部では、ごく当たり前のことになっています。しかし他の地域では人々は教育に飢えています。教育を受けることはダイヤモンドのような特別な贈り物です」と堂々と語りました。昨年、15歳の彼女はこのダイヤモンドのため、命の危険を冒したのです。

  タリバンパキスタンの美しいスワットの町に入って来たのは5年前、彼女がまだ10才の時でした。街の人々は恐怖に戦きました。なぜか。町に、首をはねられた死体がゴロゴロし始めたからです。しかしマララの父は勇敢にも、タリバンの女子教育禁止に敢然と反対しました。そのため父はターゲットになり命を狙われました。

  マララは父に似て勇敢でした。誰も声を上げない中、10才の少女は女子教育の必要性をインターネットで訴え、欧米のジャーナリストの取材を受けてイギリスのBBCニュースで取り上げられたり、ニューヨーク・タイムスに登場して、「誰も私を阻止できません。学校、家、どこであれ、私は教育を受けます」と宣言したのです。「私は人生を、自分が欲する通りに生きたい」、「言葉と書物とペンは、銃より遥かに強い」と、ハガネのような強い意志を持って、公然と語り続けたのです。世界にこういう決然とした若い女性がいることに私は驚きました。

  銃弾を受け、何度も手術を受けました。彼女は、昏睡の中で、「私は今、死んでいるの、生きているのと考えた」と言います。「死んだのなら、今お墓にいる筈だ」と思ったそうです。「でも、死んだ様子ではない。こんなことを自問自答している限り、どうして死んだと言えるの」と思った。そこでやっと、「ああ、私は生きているのだわ」と気づいたそうで、「じゃあ、いつか目覚めることができる」と考えたそうです。

  彼女の負けん気の強さは只ものでなく、「どんな分野でも一番にならなければ気が済まない」というほどです。

  タリバンは、マララが帰国すれば殺すと今も断言しています。こちらも強硬です。ですから故郷は危険です。だが彼女はいつか帰国したいと言います。

  では、極めて危険でも帰国するのかと聞かれて、最近こう答えています。「人生はいつも危険に満ちています。ある人は恐れて前に進もうとしない。だがゴールを目指そうとする者は、進まねばならないのです。我々は進まねばなりません。故郷スワットの21世紀のおぞましい状況を見ました。どうして今、怖れてなどおれるでしょうか」と言い放ちました。非常に逞しい精神を持っている。まるで成熟した大人のようです。

  更に、死が迫ってもか、と聞かれて、「死は、私を殺さないと思います。神が私と一緒にいたのです。今は、死を恐れる時ではありません。前進しなければなりません。前に進まねばなりません。なぜなら、教育と平和は非常に重要だからです。」脱帽しました。

  彼女の訴えは明白です。国連でのスピーチで、今後必ず有名になる言葉を残しました。「一人の子ども、一人の教師、一冊の書物、一本のペン、それによって世界を変えることができるのです」と語っていました。

  皆さんも知るように、彼女はノーベル平和賞のトップにノミネートされていましたが、化学兵器禁止機関が受賞し、受賞しなくてよかったと思います。16歳は余りにも早く、今後どういう人物になるか未知数です。ただ彼女自身が最近こう言っていました。「私のゴールはノーベル平和賞受賞ではありません。私のゴールは平和を手に入れ、全ての子どもたちが教育を受けることです。」ぜひ、この大きな夢を世界で実現してもらいたい。

  長く述べましたが、私は彼女から、改めてイエスはどういう方であったかを考えさせられたのです。イエスの勇気です。イエスの確信です。何に目を向け、何に立ち向かい、何をゴールとして進んでおられたかを、この少女を通して教えられました。

  私は偶像崇拝をしません。イエスは彼女と同じではありません。当然です。イエスの勇気、確信、そしてゴールに向かう意志。各福音書は、3度にわたってそれを書き留めています。それは遥かにマララさんより偉大で、大きいもので、かつ永遠なものに向かっていました。人を愛するイエスの意志の強さ、神の愛、そして何より敵をも愛し、迫害する人のために祈るように教えた、その偉大な愛の在り方を見くびってはなりません。それは人類のためです。

  私はマララさんのことを調べながら、12歳のイエスエルサレムで学者たちと論争されたのはありうると確信しました。荒野で40日40夜、断食し、餓死寸前の時に悪魔の誘惑を受け、それに打ち勝ったことも確信できました。ハンセン病の人を抱き抱えて癒されたイエスの愛の意志力も、神の愛もです。十字架の上で、「彼らを赦したまえ」と祈ったのも、口先でなく、真実に心からの祈りであったと確信しました。

  イエスの愛への意志を確信したのです。また、最も重要なのは愛だということ。愛することへの意志だという事、人間を真に人間にしようとして愛されたことを確信しました。「敵を赦し迫害する者のために祈れ。」これは愛ゆえに私たち人類に語られたイエスの最も深い愛の教えだということが分かりました。

  日本社会は10年ほど前から他罰的になっています。色々の場面でそういう傾向が強くなっています。だが、私たちはイエスが教えられたように、他罰的になってはなりません。その意味では、世の流れに逆らわねばならない。他罰的。それは極めて狭い視野です。古い考えです。それはこの世界に決して肥沃な良い生活環境を作りません。むしろ愛への意志、愛することへの意志、すなわち平和を作り出すことを目指さなければなりません。それをゴールにしなければなりません。経済ではありません。更なる繁栄でもありません。そこには必ず落とし穴があります。

  イエスは法よりも愛を選ばれました。もちろん法の重要さを熟知しておられます。しかし法でなく愛です。法は人間のためにあるのであって、人間が法のためにあるのでは断じてありません。


        (完)


                                        2013年10月13日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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