宗教でなく、神との交わりの回復


   巨大な時計塔のある聖ペーター教会からリマト川の対岸のグロスミュンスター教会に渡る綱渡りでした
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                                         味わい見よ、主の恵みを(1)ー下
                                         詩編34篇1-23節
         


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  「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。」これは教会の姿を暗示しています。教会は、まさに一つになって主を称える場です。神の家族として、信仰を持つ者も信仰を求める者も、共同体として、学歴、経歴、性別、家柄、個人の能力を超え。隔ての中垣を超えて主を讃えます。教会はあらゆる隔てを取り払った一種の解放区です。

  先週の金曜日の夜のテゼの集まりに、20才前後の人が遠く成城の方から来ました。中学、高校と学校に行けなかったと言っていました。高校時代に音楽の先生から教会を紹介されたそうで、その先生はドイツに留学し、今向こうで指揮者としてタクトを振っている人だそうです。やがてテゼの賛美歌と信仰に導かれ、やっと安らぎを得、外出もできるようになったようです。大勢が集まる場所は怖いので、礼拝に出ないで平日に教会に入り浸りしていた。今は大学入学資格の検定を取り、バイトで生活していると話していました。

  教会は隔ての中垣を超えて主を称え、あらゆる隔てを取り払って、どんな人も神様と安心して交われる場所です。

  「あなたは主を称えよ」ではありません。牧師も信徒も求道者も新しい人も、「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。」そのことにおいてあらゆる努力を惜しまない所です。

  教会はまた、教会外の一般社会の人たちにも向かって、「私と共に主を称えよう。ひとつになってみ名をあがめよう」と呼びかけている所です。

  私たちの教会は長年、1年に一度だけバザーを通して地域の人たちに仕えようとして来ました。かれこれ40年の歴史を持ちます。ですから上等の品物が多くありますが、目をつむって破格の値段を付けて来ました。それは、「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」と、地域の人たちに呼びかけたいからです。

  バザーの時、クリスマス・カードと祈りのカードをセットしたものをお配りするのも、地域の方々も共に主を称えて頂きたいからです。またバザーに続いて、去年から11月には1万枚の伝道文書・トラクトを約20の町内を廻って、各家庭にお届けし始めたのも、私たちと一つになって神のみ名を崇めて頂きたいからです。共に一つになり、あい結び合って、主のみ前に生きて頂きたいからです。

  教会形成というのは、「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」と呼びかけることではないでしょうか。私は教会が組織化され、制度化され、余りに管理的になるのは、イエスの教えから却って遠ざかると思います。

  イエスが来られたのは、神との交わりを回復するためであって、新しい宗教制度を作るためではありません。制度はしばしば人を縛り、非人間化します。だが、「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」という、神との関係の回復、神との交わりの回復は極めて重要です。ここに教会の使命があります。

  既にキリストに属しておられる方は、それでヨシとするのでなく、神との交わり、キリストとの日々の交わりをいつも目指して頂きたいと思います。キリスト教信仰の本質は宗教制度でなく、神との交わりなのです。これが中心です。

  神との交わりを助け、補強するのが宗教制度です。その限りにおいて制度や組織は必要であり、大切です。

  いずれにせよ、私たちの教会は、「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」という呼びかけを、知人や家族や地域の方たちにしていきたいと思います。

  木曜日の祈祷会で学んでいるマルコ福音書15章に、北アフリカ出身のクレネ人シモンが、イエスの十字架を背負わされる場面があります。彼は、ローマ兵からイエスの代わりに十字架を担ぐように命じられ、嫌々ながら、腹の中は煮えくりながら十字架を背負いました。所がそれが縁で、彼はキリストはなぜ十字架を背負わされ、処刑されたのかを考えに考えたのです。そして最後にキリストの愛に触れて、信仰に入ります。しかもやがて彼の家族もキリスト教信仰を持ち、ローマで活躍していきます。

  彼も、「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」という呼びかけを、家族や知人にしたのではないでしょうか。

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  ダビデが自分の周りに厚い壁を作らず、壁を突き抜けて他と連帯的に生きるのは、彼自身が神の恵みを実際に経験したからです。

  5節から8節でこう言っています。「わたしは主に求め、主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。」

  注がれた主の恵みに目を留めるのです。「数えてみよ、主の恵みを」ということが大事です。主の恵みを忘れてはならないのです。忘れずにいると、恵みが溜(た)まって来て、「常に」という言葉さえ口を突いて出るようになります。底の抜けた器のように折角の恵みを忘れてしまえば、感謝が湧きません。主の恵みを数え、頂いた恵みを貯めるのです。

  以前の教会に重い障碍を持つ婦人がありました。一人で外出できない方でした。ある時、献金してくださいと、何本かの指が曲がった手で、少し大きなガラス瓶を差し出されました。そこには1円玉や5円や10円玉が肩の所まで入っていました。持ち帰って数えると数万円ありました。小さな恵みでも長く貯めていると、いつの間にか大きな恵みになって驚かされるのです。

  自分がどんなに小さな者、信仰の薄い者と考えている人でも、恵みをためて数えるなら必ずキリストの恵みの証し人になるでしょう。「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない」とありますが、キリストの光を受けて光と輝き、顔を伏せることはないでしょう。むしろキリストは、小さい私をお用い下さり、小さい私において勝利して下さったという喜びが生まれます。

  今日は、ここまでに致します。9節以下の続きは来週にお話致します。


           (完)

                                        2013年9月29日



                                        板橋大山教会 上垣 勝



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