こんな終活ができれば


     チューリッヒ発祥の地、リンデンホフの丘では楽団の演奏で民族ダンスの輪ができ賑わっていました。  
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                                         今日も明日も次の日も (下)
                                         ルカ13章31-35節


                              (5)
  こう言われたイエスは、次に、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」とおっしゃいました。

  イエスは社会批判や政治への攻撃をするのが目的ではありません。私たちも社会批判や人の批判をして得意になっているとすれば、それはイエスの御心ではありません。ただの不満家で終わってはなりません。これは大事です。

  イエスは、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、広く大きな、現実の人を愛する愛の方でした。雛は弱いです。めん鳥は雛に危険が迫ると、コッコッコッコと特別な声を立てて雛を呼び集めます。遅れたりすると雛の頭をコツンと小突くこともあります。めん鳥は命を預かっています。それを守るのは自分の使命です。

  イエスは私たち人間が、神の愛の翼の下で生きて欲しいのです。その願いの強さが、「何度集めようとしたことか」という言葉です。

  秋田県白里町の話を新聞で読みました。私たちは昔弘前にいましたが、町の南西には世界遺産になった白神山地が広がり、秋田県白里町辺りまで続いていました。

  その町の社会福祉協議会の女性の事務局長さんへのインタビューが載っていました。その町は現役世代の1割が引きこもりだそうです。20歳から60歳までの人です。人口や現役世代が何人か知りませんが、1割というのは非常に多いです。千人中百人が引きこもりだと言うのです。

  実は引きこもりの人の数は、今も正確に分かっていません。厚生省は20万とか30万と言いますが、調査がずさんで、ある研究者によれば160万人以上が引きこもりと言われています。でも1割ではない。

  どうして白里町がそんなに多いのか。実は白里町が多いのでなく、この町は徹底的に調査したからです。というのは、親が生きている今はいいですが、親が死ねばその人と関係を作るのはほぼ不可能だからです。それで、今のうちにたとえ追い返されても何度も足を運び、予め調べてからですが、「お宅には引きこもりの方がおられますね」と言って訪問を重ねたそうです。そんな言葉は失礼で追い返されるわけですが、追い返されても、イエス様のように何度も訪問した。するとやがて、心を開き、「親身に心配してくれてありがとう。実は誰にも相談できなくて…」となって口を割り始めるそうです。

  例えば東京で就職したが何年かで辞めた。再就職したが、そこは派遣切りになったり、会社が潰れたり、やがて直ぐには就職が見つからない。で、地元に帰った。だが田舎に職がある筈がない。親の所で暫く休憩しようと暫らく経つうちに、1年、2年、そして10年、20年経ち、家族とは顔は合わすが、外の人とは全く顔を合わさない。避ける。外出はするが顔を合わせない時しかしない。仕事していないのが恥ずかしいわけです。親の世話になっているのも恥ずかしい。家の人もそんな息子や娘が家でいると知られると恥ずかしい。これが多くの引きこもりの実情だというのです。昔なら、近所の手伝いや畑仕事などで細々暮らす道もあったが、今はそんな道は、田舎でも閉ざされている。現代社会はそれほど病んでいるのです。

  白里町の事務局長さんは、「本人と関係を作らないと、支援をしたくても始められない」、今それをしなくてはならないと語っていました。大変大事な取り組みだと思いました。

  イエス様は、どんな人も、神の愛の翼の下に宿って欲しいのです。雛はカラスや狐や蛇に襲われる危険があります。それで、イエスはめん鳥のように何度も何度も、集めようとしたと言われるのです。

  イエスの愛が表わされています。「国を愛するとは、自分を愛するように目の前にいる他者を愛することだと私は信じています。」「己のために、他者を排除する者は私は断固として許さない。」イエスは社会批評家でなく、愛の人です。

  イエス様は、私がどこにいるかを知っておられます。それだけでなく、なぜそこに私がいるのか、私が何に苦しんでいるのか、それをどう感じているかを知っておられます。めん鳥のように翼を大きく広げて守って下さるのです。イエス様は、私が自分自身について知っているよりもよく知っておられ、私を個人的に案じて下さっているのです。雛は全体の情況が掴めない。しかし親鳥は全体を掴んでいます。

                              (6)
  最後に、「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

  どういうことかというと、あなたたちが私の招きに「応じ」て、私のところに帰って来るまでは、私に会うことがない。逆から言うと、神への賛美を持って帰って来るとき、私と真に出会うことができるということです。

  信仰をもって、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と語る。その時、あなたがたは私に出会い、再び喜びを授けられるということです。信仰の喜びは出会いの喜びです。神と、イエスと出会う喜び。

  イエス様は、川の中に落ちた財布を網で救うような救い方をされるのではありません。物を掬うような救い方ではない。キリストの救いは出会いなのです。キリストと出会って喜びとなる。救いの出来事が起こって、感謝が、喜びが、胸に起こるという形でやって来ます。そのようにあなたがたが私の所に進んでやって来るときに、必ず喜びの出会いが起こる。

  ある婦人が病気で、最近65歳で亡くなりました。キリスト者で、有名な児童合唱団でボイス・トレーナーをして来られた方です。その方がその合唱団のボイス・トレーナーになった時、前任者は応募して来る児童を合唱はこうあるべきだという一定の価値観を持って厳選していましたが、自分は選別しない。どの子も神様から与えられた特徴ある声を持っているので、それを生かしますと言ってそうなさったそうです。

  何年かするうちに、やがて病気になり、トレーニングができなくなったのです。すると、病床で一人ひとりに手紙を書いて、あなたはここがいいので伸ばしなさい。あなたはこういういい賜物があるのでそれをこう引き出しなさい、などと書いて、病床から子どもたちを愛し、励まされたそうです。彼女は信仰の証として、人生の最後をそのように過ごされたのです。

  最近「終活」ということが言われます。人生の最後をどう迎えるか。この方こそ、終活とはどうあるべきかの良いお手本を示されたのではないでしょうか。どこで、どのように、どんなお葬式をするかなどの終活など枝葉の問題です。人生の最後をどう締めくくるのか。そのあり方をこの方は示してくださったと思います。キリストと真に出会う中で、愛において人生を終えるという本当の終活ができるのです。

  めん鳥は雛を羽の下に集めるのです。イエスは私たちを今も、さあ私の所に来なさい、この翼の下にいらっしゃいと招き続けておられます。

           (完)

                                        2013年9月22日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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