世界を完全にコントロールした男?


                  チューリッヒは丁度水上フェスティバルの前日でしたが、
          この都会の空をパラグライダーが5、6台飛行していて思わず解放感を味わいました。
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                                         今日も明日も次の日も (中)
                                         ルカ13章31-35節


                              (2)
  さて次に、イエスは32節で、「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない…」と語られたとあります。

  「あの狐」と言われた人物はヘロデ大王でなく、息子のヘロデ・アンティパスの方です。大王は猜疑心が強く、多くの側近、親戚、妻まで暗殺した人物です。その息子は今度は、狐は狡猾さの代名詞ですが、狐のように巧妙でズル賢かったようです。

  「あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』…」と言えと、言われたのは、イエスがヘロデ及び政治権力をどう見ていたかを表わす大事な部分です。「今日も明日も、悪霊を追い出し」という言葉は、単に病気の悪霊だけでなく、ヘロデの政治的社会的悪の霊を、その野望を問題にしておられたからでしょう。彼のズル賢さは悪霊の仕業である、一種の病気だとご覧になっていたのです。

  権力の座に着く者の中には、国民を狡猾に騙す人たちがいるものです。騙したかどうかは分かりませんが、福島の原発の「汚染水は完全にコントロールできている」と、世界の大舞台で語った首相です。大見得を切りましたが、現地の漁業関係者や町長などは違和感を持っています。完全にコントロールできているなら海への汚染はないでしょう。しかし、海中に細かい目のネットを張っているだけで、ネットに特殊な魔法でもかけない限り、波が打ち寄せ引くことで30%は外洋に流れるのは実証されています。放射性物質が実際は太平洋に流出しているなら、これは「世界を騙した男」とか、世界をコントロールしようとした男と言われて名を残すでしょう。

  それはともかくも、ヘロデは狐のような人物であったのです。

                              (3)
  それでイエスは、「あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』と」言えとおっしゃり、更に、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と言われました。

  どういうことかと申しますと、ヘロデの権力は巧妙であると共に、人々に有無を言わせずねじ伏せて行く力、剣をもって脅かす死の力ですが、イエスはヘロデの政治権力や死の力など、いかなるこの世的力にも屈せず前進していくという意味です。

  何者も歴史に働くキリストの、神の救いの業を止めることはできない。たとえ大ローマ帝国を背景に誰をも震え上がらせる強大な権力をもつヘロデ王であっても、です。イエスの救いの業は、今日もまた明日も続いていく。エルサレムでの死もイエスの業を阻止できない。死をも越え、3日目の復活へと、神の勝利へと進んでいくということです。

  「今日も明日も」を2度繰り返されたのは、イエスご自身の強い意志を強調されたためです。いかなることがあっても、イエスの意志、主なる神の意志は貫かれていくと言うのです。

  また「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」この「ねばならない」は、神の必然を表す言葉です。これは神の意志であり、私は主なる神の意志に従いこの道を私の必然の道として進んでいくという意味です。

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  こう言われた後、「預言者エルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」と続けられました。

  イスラエル預言者たちは、常に自分の時代の核心的な問題を取り上げて語りました。社会の問題は、むろん王や貴族や知識人が占めている都に、首都に集中的に現われます。その政策、その考えは都市に現れる。その裏表の関係で地方の農村の疲弊などとしても現れたわけです。今の時代と余り変わりません。例えば、預言者アモスは、農民預言者として地方に留まって農業をしながら、都の政治家やその子女たちの生き方に表れた高慢な生き方に鋭い矢を放ったのです。

  イエスもまた、「エルサレムエルサレム預言者たちを殺し…」と語りました。イエスも、都の人たち、現代風に言えば都民のあり方に対して語っています。私たち都民は心してイエスの言葉を聞かなければなりません。

  ただ注意して見ますと、イエスはご自分のことだけを語っておられません。「預言者たち」という言葉で、イスラエルの数多くの預言者を通して、その全歴史を見ておられるのです。彼の視点は大きいのです。ヘロデのことを述べながら、同時に大きく歴史全体を捉えておられる。木を見て森を見ずではない。むろん森を見て木を見ずでもない。

  イエスが十字架にかかられるのは、私たち一人ひとりのためです。新島襄が、「国を愛するとは、自分を愛するように目の前にいる他者を愛することだと私は信じています」と語ったのは、イエスのこの生き方を反映したものです。人類愛は、個々人への愛に始まり、個々人への愛なしには始まらないですし、また、個々人への愛は全人類も視野にある時に普遍性を持ちます。イエスの愛は、この2面をもっています。


           (つづく)

                                        2013年9月22日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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