軸になるものを持って生きる


                スイス人は路地遊びが大好き。公園でチェスが始まるところでした。
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                                         狭い戸口から入りなさい (中)
                                         ルカ13章22-30節



                              (1)
  イエス様はエルサレムに上る旅の途中、町や村を巡って神の国の福音を説かれましたが、ある男の質問をきっかけに、弟子たち一同に、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。今日はこの点を巡って福音を聞きましょう。

  ルカは「狭い戸口」となっていますが、マタイでは「狭い門から入りなさい」と訳されています。アンドレイ・ジイドの「狭き門」がよく知られているので、私たちにはマタイの言葉が馴染み深いでしょう。しかし元のギリシャ語では、両方とも同じ言葉が使われています。ただ前後関係があるので、戸口と訳されたり、門と訳されたりしているだけなのです。いずれにしろ、これはたった一人がギリギリ通れる狭い門、狭い戸口のことです。また、腰を屈めなければ入れない狭い入口のことです。

  ということは、イエスエルサレムに上るこの時に、弟子たち全員に、救いの道はたった一人の道だと言われたのです。皆でお手々つないででは、できない。一人になって、キリストと一対一で出会って歩く道だと言われたのです。

  またこれは、不要なものを捨て、シンプルになって生きる道も示唆しています。色んな問題を抱える中で、もう一度シンプルな所に戻って始めることは大切です。信仰の道もシンプルです。シンプルにイエスに従う道です。

  信仰の道はただ一人の道です。むろん信仰は教会の交わりの中で育ちますし、交わりなしには信仰が歪んで、自己流になってしまいがちですから、やはり交わりの場に身を置くことは極めて大事です。にもかかわらず、そのような交わりをしながら、同時にただ一人キリストの前に出て、キリストと生きた交わりをしなければ、喜びある、生きた信仰の力は生まれません。キリストと差し向かいで生きる時に、世の風潮に流されない、自分本来のあり方が生まれます。先ほどの交読詩編16篇に、「私は絶えず主に相対しています」とありました。この、主に相対して生きることが大事です。

  今は大衆社会で、大量に同じ規格のものを安く量産します。テレビも新聞も大衆化して、多くの読者や視聴者を持つものが優れたものであるかのような錯覚を与えます。またインターネットで情報を一挙に大量に多数の人に発信する時代でもあります。

  私は最近、自分の頭がおかしいのでないかと疑うことがあります。朝日新聞でもNHKでも、随分力を入れているなと思っていたら、それは朝日新聞主催の催し物だと後で分かったり、NHKがやがて放映する番組の予告だったりします。ニュースとPRの境目ができるだけ分からないようにしています。重要でないものも大々的に宣伝されるなんて、味噌もクソも一緒にしている感じ、凡人は、こっちの頭の方がおかしいのでないかと悩まされる訳です。

  もう一つ最近考えさせられるのは、今申しましたような上手く人を操作する社会が、今後何百年も続いていくとすれば、果たして生きる価値があるのだろうか、こんな腑に落ちない社会を維持していく意味があるのかと、社会だけを見ていると、生きることに疑いさえ生まれます。

  私が言いたいのは、社会には真に拠り所となる座標軸がないということです。マスコミもお金で動いています。どれもこれも打算で生きている。こういう社会を鋭く見抜く若者の中には、果たして人生は生きる値打ちはあるのかという思いがよぎるだろうということです。

  だからでしょう。そのためにこそイエスは、現代人に対しても、たった一人で狭い門から入りなさいと言われるのでしょう。大量、大衆、マスの時代であればあるほど、一人ひとりが、真の拠り所を軸にして、自分を確かに持って自己確立して行かなければ、人の意見の洪水、時代の風潮に簡単に押し流されてしまうからです。

                              (2)
  イエスは狭い戸口から入るように「努めなさい」とおっしゃいました。「努めなさい」という言葉は、運動や戦いで格闘すること、もがいて最善を尽くすという意味です。狭い門から入るために、先ず自分自身と格闘し、もがき、最善を尽くしなさいとおっしゃっているのです。

  一時の信仰でなく、信仰を持続するには、努め努力すること、時には色々な問題と格闘し、もがき、その中で信仰生活の最善の道を見出していく必要があります。

  信仰生活にとって大切なのは、ただ神のみを神とするという基本的な姿勢です。それは家族や社会や国や世界でなく、それよりもっと大きな確かなお方に自分は属していること、このお方は永遠なるお方であることを知り、この方と愛の絆で堅く結ばれていることを認識することです。この神との確かな交わり。この軸である方が人生と信仰生活を支えます。

  コリント前書に、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」とありますが、私たちはキリストという尊い高額な代価を払って買い取られている。本質的には、自分はこの方にのみ属しているという確信を持つことが大事です。

  「狭い戸口」は、一人で入る戸口だと申しましたが、それだけでなく身を屈め、身を屈してでなければ入れない戸口です。尊大なままでは入れないです。ただ神のみを神とするまでに、砕かれ、低くなって入らなければならない。

  三田線に乗っていると、競馬に行く人でしょうか、競馬新聞を広げて懸命に読んでいる人たちを見かけることがあります。どこの競馬場に行くんですか。教会の皆さんにお聞きしても分からないですね。彼らは、新聞を必死に見て、鉛筆で何か印をつけて格闘して予想を立てています。

  救いを求めて、あれだけ聖書と格闘すれば、容易に狭い門から入れますよ。そういう意味では、「狭き門」と言っても誰でも入れる狭さです。また反対に、クリスチャンはあの人たちに負けず、もっと格闘して聖書を読まなければなりません。

  マタイの方では、滅びに至る門は広く、その道は広々しているとおっしゃっています。人間は格闘もしますが、自分を甘やかせばどこまでも甘やかします。滅びに至る道は広々していて、快いのが常ですから、そっちに行きがちです。

  だが格闘し、努力し、一人が通れる狭い門を一人で行ってこそ、自分らしい、自主独立的なあり方が身につきます。

           (つづく)

                                        2013年9月15日



                                        板橋大山教会 上垣 勝



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