アブラハムの娘


              カルヴァンのSt.ピーター大聖堂(側面)、入口は写真左側・ジュネーブ
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                                           法をこえるもの (下)
                                           ルカ13章10-17節


                              (4)
  イエス様は彼女を、「アブラハムの娘」と呼ばれました。長年、絶望感で打ち拉(ひし)がれ、病の霊に苦しみ、社会から締め出されて来た彼女をこう呼ばれたのは、イエス様は彼女を愛の目で見ておられたからでしょう。

  彼女は本来アブラハムの娘である。今は呪われた女のように扱われているが、本当は美しく、立派な、晴れ晴れした、神に愛された女性である。今の姿は、18年間病に取り憑かれ衰弱し切って、外面はささくれだった姿をしているかも知れない。だが彼女の中に素晴らしいものが埋もれている。――イエスは全ての人をそうご覧になります。あなたもアブラハムの娘です。――その本質を見抜いてイエスは彼女を解放されたということです。イエスの愛はなんと広々していることでしょう。

  イエス様は、安息日にもあえて法を破ってご自分を危険に陥れながら、一人の迷い出た人を探し出されます。いざって這っている一人の救いのために力を尽くされます。孤独なこの小さな人のため、命を危険に晒されるのです。この一人に尽くされるということは、迷い出た一匹の羊の譬えで言えば、他の99匹にも力を尽くされることです。イエスの愛は広く大きいとともに、真実なのです。

  この事件はルカによる福音書にしか出て来ません。しかし、「こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」となっています。

  イエスはこの事件だけでなく、これに類する数々の素晴らしい行いをしておられたということでしょう。その多くは今は埋もれて私たちは知ることはできません。無論この他にもルカ福音書に多くの業が書き留められていますが、しかしこの事件だけを考えても、イエスはごく小さい事柄にも熱い愛を込めて関わり、ごく小さい人を大切に愛されたことは、充分うかがわれることです。

  イエスは罪なき神の子ですが、私たちを愛し、罪ふかき私たちを友とすることを恥じられません。私たちを愛してアブラハムの娘、アブラハムの子とされるのです。

  この女性は自分を長年縛る縛りから解放されました。だが、イエスは会堂長も律法学者もファリサイ人も、万人が律法の縛りから解放されて、神による真の自由に入れられることを願っておられたのではないでしょうか。

      (完)

                                        2013年9月1日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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