律法主義の落とし穴


            ジュネーブのSt.ピーター大聖堂の近くにジャン・カルヴァン通りがあります
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                                           法をこえるもの (中)
                                           ルカ13章10-17節


                              (2)
  申命記5章に安息日の掟が出ています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられた通りに、6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。…かつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」

  天地創造において、神が7日目に休まれた。その故事に倣って、ユダヤ人は安息日の掟を厳格に守ります。安息日はまた、イスラエルが430年にわたるエジプトの奴隷生活から導き出された解放を喜ぶ日でもあります。安息日の掟は、掟中の掟であり、いかなる場合も何の業もせず、厳格に休まねばならない、侵すべからざる最後の掟。この一線を越えて逸脱する者は、死をもって報いられたのです。

  ところが、安息日にイエスによって癒された彼女は、心から神を喜び、ほめ称えました。ユダヤ教は、掟を破る者は石打の刑に処せられると厳命し、神が休めと労働を禁止されたと「説いている」のに、その日に彼女は救われたのです。

  ちょっとややこしいですが、神が癒されたということは、神が安息日の禁止を破られたことです。神は宗教の掟の下におられないのです。人間の法は神の御心を全うできないのです。

  お分かりでしょうか。あれをしてはならぬ、これをしてはならぬ。神の掟だ、厳命だ。人間は神の名を借りて、それは逸脱だと言って禁止したりします。だが人間の絶対が、神のみ心に叶っているとは限りません。

                              (3)
  「ところが会堂長は、イエス安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は6日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない』」と、申します。

  会堂長は律法の違反に激怒したのです。平日に来て癒してもらえ。安息日はダメだ。明日まで1日待てばいいだけだ。そうすれば律法も守れる、病気も癒される。一挙両得である。18年間病気だったのだ。一日遅れても大した違いはない。病気は急変しないだろう。

  彼の考えは間違っているでしょうか。筋が通っていないでしょうか。会堂長の主張は法に沿ったものではないでしょうか。

  一見、筋が通って見える、ここに律法主義の落とし穴が隠されています。律法主義というのは一見理屈が通り、合理的に見えます。しかし真理のように見えることを隠れ蓑にして、人を管理するのです。人々の行動に目を光らせ管理します。それはただひたすら自分たちが支配するためです。

  この事件は安息日に起こりました。イエス安息日に癒されたのです。神の愛は人間の法を超えていることを示すためです。人間の宗教は自分を高め、自分を神の座に置き、自己絶対化することがしばしばあります。

  イエスは、ユダヤ教のこの自己絶対化を崩し、ヤーウエを頂く宗教といえども極めて罪深いことを明らかにされます。日本でも例外ではありません。

  会堂長に対して、「偽善者たちよ」と面と向かっておっしゃり、「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やロバを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」とおっしゃったのはそのことです。

  なぜ偽善かというと、彼らが、家畜と人間で違った論理を適用して善を装うからです。それは二種の秤です。ダブル・スタンダードです。

  善を装う。だが、具体的な隣人に対しては愛を欠いています。この女性は癒されて神を賛美したのです。だが彼は喜ぶ者と共に喜びません。とても冷たい。人間より律法が、法が大切なのです。神が最も大事だから律法を大切にすると言いつつ、実は自分たちが作った法や制度を守り、既得権を守るのです。神を持ち出しながら、自分を守っている。そこに偽善、誤魔化しがあります。

  会堂長や律法学者にあるのは恐れです。真に神のみを恐れるのでなく、――神のみを恐れているなら律法的に画一的になる筈がありませんし、もっと心広くなりますが――、神を最も大切にしているかのように装いつつ、実は人を恐れている。

  神によって義とされる。もしそうなら人を恐れる必要はない。人に媚びることも、義を装う必要もありません。小手先の見せかけは不要です。律法の行いでなく、信仰によってのみ救われる。もしそうなら恐れる必要はないでしょう。

  律法主義は人を恐れ、世間の目を怖れるだけではありません。互いに監視し合うようになります。ですから律法主義があるところでは息が詰まるのです。教会だって、律法主義的になると息の詰まる場所になるでしょう。

  律法主義は、偽善が巧妙に入り込みます。それは聖書を申し分なく重んじ、中でも律法を最重視します。「主なる神を愛し、隣人を愛せよ。」これを一番重要だとします。だが、それを看板にしていますが、本人はそれを生きないのです。教えているので、まるでそれを生きているかのように勘違いするのです。それは自分をも騙しています。しかも、自分こそ立派な信仰者だと思ってしまいます。

  太宰治は、偽善に対して鋭い嗅覚を持っていました。私は学問も大切だと思いますが、彼は、「学問とは虚栄の別名である」と言いました。確かにそういう所がありますね。彼は、論理は所詮、論理への愛である。生きている人間への愛ではないとも言い放ちます。彼は偽善の化けの皮を剥がすのが得意ですから、歯に衣を着せません。人間はインチキをしながらでなければ生きれない、とも言います。そうでしょう。インチキと言いませんが、急にお客さんが来れば、慌てて色んな物を押し入れに放り込んで、涼しい顔をして出迎えませんか。都合の悪いものは隠すでしょう。

  でも、律法主義者は自分は小手先のインチキをしていても、インチキしていないと言い張るのです。そこに彼らの罪があります。正直に神の前に立てばいいのに、正直に立たない。そこに彼らの最大の問題が潜んでいます。

  イエスは、「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と言われました。

  イエスは全ての法を闇雲に破られるのではありません。「安息日の法は人のためにあった筈」なのに、「人が安息日の法律ためにある」というふうに逆転する。人を法の奴隷にする。そこに問題があります。

  安息日は、本来神による解放を感謝する日です。奴隷からの解放、罪からの解放。そして安らぎが与えられる。それが安息日の真意なら、安息日にこの女性を病弱にする霊や絶望感の縛りから引き出して休ませてあげるのは、安息日の真意に叶ったことでないでしょうか。安息日だからこそ、束縛を解いてあげるのがみ心に添うことではないでしょうか。イエスはそのために女を癒されたのです。

      (つづく)

                                        2013年9月1日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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