幸せを単純に喜ぶ


                  宗教改革記念碑の前にあるジュネーブ大学のステンドグラス
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                                           法をこえるもの (上)
                                           ルカ13章10-17節


                              (1)
  今日の箇所はルカ福音書にだけ記された事件です。医者ルカの筆致は生き生きとして、社会の中で打ち拉がれた病人に対する、人道的な医者らしい愛情が感じられます。

  「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」とあります。事件は安息日に起こりました。キリスト教安息日を土曜から日曜日に変えましたが、元のユダヤ教では土曜です。この土曜日、安息日が事件の鍵になっています。

  さて11節は、「そこに、18年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」とあります。原文は「見よ、そこに一人の女性がいた」と、この女性に先ず読者の注意を向けさせています。

  彼女は18年間も病の霊に取りつかれ、腰が2重に折れ曲がって、歩けなかったのです。私は10歳ころ初めてこういう婦人に接することがありました。当時「躄(いざり)」と呼ばれていました。今はもうこの言葉は死語になったでしょうか。別の日本語訳は、「病弱にする霊に取りつかれていた」と訳しています。彼女が立てないのは肉体方面からでなく、精神方面から来ていたのかも知れません。

  年齢は分かりません。20代か30代に発病すれば、18年といえば30代後半か40代後半です。もしそうなら、健康なら人生で一番安定した働き盛り、最も充実した時期でしょう。だが、皆が元気に飛び回っているのに、自分だけいざってついて行けない。人生の大半を病魔に取りつかれ、その悩みは深刻で、不安で、心は打ち拉がれていたでしょう。

  当時のことです。神から見放された人間として、世間から後ろ指を指された筈です。神から生を享けたのに、神に見放されたとはどういうことでしょう。呪われた人とされて、誰も寄り付かない。同じ人間であるのに気の毒でなりません。

  気の毒といえば、シリアからトルコやレバノンに100万人単位で難民が逃げています。両親と一緒の子ども、中には子どもだけで逃げている場合もあるようです。途中でレイプされる女の子もある。そんな酷いことをされながら逃げて行くようです。

  先週、イギリス帰りの台湾の33歳の若い女性が牧師館に立ち寄り、泊まっていました。イギリスで博士号をとり、秋からイスラエルヘブライ大学で教えることになっています。

  驚いたのは、台湾は日本に大使館も領事館も持ちません。イギリスにも大使館がない。中国が2つの中国を認めないからです。彼女は国際関係を研究した優秀な人で、同級生はほぼ外交官ですが、国際的に認められない台湾の地位に悩んで、他の分野に移りました。中国の9世紀頃の古代史の研究者になったのです。しかし中国だけでなく、中国、日本、朝鮮の当時の広大な国際的文化交流の研究者として注目され始めています。

  気の毒という言葉で思い出したのは、たまたま台湾に生まれたため、大変不利な条件を背負わされ本当に気の毒だと思ったからで、それに負けない人ですが、同じ人間なのに、国際社会の矛盾が露骨に一人の女性の肩にのしかかっているのを教わりました。日本人の知らない悩みです。

  聖書に戻りますが、「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」というのです。

  イエスの方から声をかけられたのです。誰も相手にしない打ち拉がれた女性に、イエスから温かい声をお掛けになったのです。思いがけない温かい言葉に、心は破裂しそうになったでしょう。

  「婦人よ、病気は治った。」元のギリシャ語では、「あなたは虚弱さから解き放たれた」となっています。ある英訳は、「あなたは、不可能から解き放たれた」と訳しています。

  彼女は、虚弱さの余り何もできず、またする気にならず打ち拉がれていたのです。生きていて何の意味があるかと悩んで来たでしょう。希望を持とうと自分を励ましても、現実の虚弱さに押しつぶされたでしょう。「自分は何もできない。こんな状態では何もかも不可能である。こんな者がなぜ生まれたのか」と、絶望のどん底にあったでしょう。

  だがイエスは、「婦人よ、病気は治った」と言って、手をその上に置かれると、「たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」のです。18年間縛られてきた「できない」という虚無的な重い現実を、イエスは一撃のもとに砕かれたのです。そして、「できない」から解放し、絶望から引き出し、岩のような巨大な劣等感の塊を砕き、そこから自由にされたのです。

  今日でもこういう所でがんじがらめに縛られている方がいらっしゃるかも知れません。そういう方が、一日も早くそこから解放されることを願わずにおれません。

  すると、「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」非常に不思議な現象です。イエスに癒されるや、彼女は「神を賛美した。」目の前に希望の光が差したのです。彼女の顔が喜びに美しく輝いたでしょう。

  何が起こったのでしょう。イエスが、神が安息日に彼女を癒されたのです。イギリスの知人がブログでこんな言葉を教えてくれました。「覚えていて下さい。幸せとは全ての幸せを手に入れることではない。幸せは、あなたが手にしているその幸せを単純に感謝することだ。」この女性は、イエスに癒されて幸せを掴んだのです。その幸せを喜び、率直に神に感謝したのです。

  今日はHさんが礼拝に出席され大変嬉しいです。でも大丈夫ですか?ご本人の前ですが、こんなに弱られても輝いたお顔をされ、確かな強い心をお持ちなのは、イエス様から与えられたものを、欲張らずただ単純に感謝しておられるからだと私は思います。二心を持たず、小さな喜びで心を満たしておられる。

  子どもが、砂浜で拾った小さな貝殻を宝物にして喜びます。その喜びは美しく、清らかです。イエス様は、「幼子のようにならなければ天国に入ることはできない」と言われたのです。幸せを貪欲に一杯手に入れようとするのでなく、与えられた幸せを単純に喜ぶ、感謝するこういう生き方が大事です。足る事を知って感謝し、喜ぶことです。

      (つづく)

                                        2013年9月1日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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