暴力へ向かう衝動


                         ジュネーブ宗教改革記念碑
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                                         来年は実がなるかも… (下)
                                         ルカ13章6-9節


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  「来年は実がなるかも知れません。」イチジクは、「かも」という不確かさの中で守られたのです。私たち、いや、この私は一生かかって、「実がなるかも知れません。ならないかも知れません」でしょう。だが、忍耐し、耐え忍ばれて、神様が生かしておいて下さっているのだと思います。

  私たちは、そういう憐れみの御手に生かされていることに気づいているでしょうか。それとも、自分の力で生きていると思っているでしょうか。もしそうなら、過信も甚だしいと思います。私たちは赦され、生かされているのです。

  園丁は、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言いました。肥やしとは何でしょう。肥やしは、イエスの十字架の血潮、その死こそ私たちの肥やし、実を豊かにならせる恵みの肥料であるということです。

  「来年は実がなるかもしれません。」なるかも知れないし、ならないかも知れない。新共同訳はこんなあやふやさを訳しています。だがこの言葉は、「来年は実がなるでしょう」と訳すことができますし、そう訳している英訳があります。僕(しもべ)は、来年はきっと実がなるでしょうという希望、いや、確信を持って関わっていくのです。諦めつつ関わるのと、必ずそうなリますと祈りつつ、前向きに積極的に関わるのとでは、雲泥の差があります。私たちは、こう言う前向きの思いを持って人に関わっているでしょうか。

  最初に、私たちはいかに多く辛抱され、忍耐され、我慢されて来たかということを申しました。人は赦されて生きていると申しました。「そんなことは当たり前ですよ」と、ぶっきらぼうに言う人があるかも知れません。しかし、その当たり前を、感謝をもって、「有り難きこと」として、そういう事は「中々有り難い事柄」として生きることが大切なのです。そこから人間の品位が出てきます。誠実が生まれる。当たり前だからと言って、口でも、心でも、感謝を表わさない。それが実をつけないイチジクの姿です。お分かりでしょうか。だが、口でも、心でも、はっきり感謝を表わして生きる。それが人としての慎みです。

  テゼのブラザー・ロジェさんは、「人の心の内側には、暴力へと向かう衝動がある」と述べました。私は本当にそう思います。近頃の日本の言論を見ているとそういう懸念を抱きます。暴力へと向かう衝動。彼は第2次世界大戦の前後にそれを嫌というほど経験したのです。

  そこで彼は暴力の道でなく、信頼を作り出す道を模索しました。それで、この言葉に続けて、「地上に信頼を作り出すためには、和解した心をもって道を歩み、自分自身が周りの人たちと平和に生きることから始める必要があります」と語りました。暴力へと向かわせる衝動が世の風潮となる中でも、自分は和解した心を求め、平和を作り出すことへと向かおうとするのです。

  暴力によらず、平和を作り出す。これが最も大事で、これはキリストとの出会いから来るとロジェさんは考えました。これはニコライの「価値があるのは、他を憐れむ心だけだ」という言葉にも通じるでしょう。

  いずれにせよ、この僕は何と辛抱強い、憐れみ深い使用人かと思います。心には愛が溢れ、慈しみが宿り、主人に抗ってイチジクをかばうのです。これはまさにイエス・キリストの生涯を指し示しています。

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  ただ、この譬えはそこで終わりません。「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言います。では、彼は、来年実がなるのを疑っているのでしょうか。いないのでしょうか。私は疑っていないと思います。彼は、決して疑わないのです。

  キリストも、私たちが実をつけることを疑われないのです。必ず良い実をならせること。美味しい果実をつけると疑われないのです。そのために罪の無い方でありますが、私たちの肥料としてご自分を捧げて下さるのです。私たちに実がなることを疑われない。イエス様はそういう愛の目で見守って下さっているのです。憐れみの心だけをもたれるのです。

  それにしても、もし実をつけないなら、切り倒そうと思っておられるのでしょうか。また英訳ですが、幾つかの英訳は、「もしだめなら、切り倒すことができるではありませんか」と訳しています。

  切り倒すかどうかは、その時にならないと分からない。その時になって、切り倒すことができる。だが、そうしないこともできる。ですから、それを、「切り倒されるぞ」と脅すのは、私たちが神の領域に入り込み過ぎであって、今は、そこまで入り込んではならないと見ているのです。

  このところが大事です。私たちは勇み足になり勝ちです。神に先立って裁きがちです。だが、最後にお裁きになるのは神のみであって、私たちではありません。人間は、神にお委ねするところで止めておくべきなのです。

  それにも拘らず、こう言う人があるかも知れません。やはり、来年、実がならなければ、必ず切り倒されると言っているのだと。切り倒すのが好きな人ですね。

  では、去年から見て、1年後の今年の私たちは実をつけているだろうか。神との間ではどうか。平和を作り出しているかどうか。他を憐れむ心だけを持たれるイエスの心を自分はどれだけ持つようになったか。隣人を進んで愛することにおいて、職場で、家族の間で、他の場所で、実をつけていると胸を張って言えるだろうか。

  実をつけていないのに、切り倒されていないことを知って、そこに、神の自由な恵み、憐れみが注がれている事、働いていることを感謝するべきではないでしょうか。一年間の執行猶予、いや何10年にわたる執行猶予を授けられて来たのではないでしょうか。実をつけていないのに、神の一方的な自由な憐れみから赦されて切り倒されていないのです。

  マタイ18章25-27節をご覧ください。1万タラントンの借金をしている家来が王の前に連れられて来た。1万タラントンは約6000億円か、それ以上です。これは私たちの姿を暗示しています。

  しかし家来は返済できなかった。文語訳聖書はこう述べています。「償い方なかりしかば。」償い方がなかったので、王は妻子も家屋敷も一切を売り払って償うように命じた。でもできない。出来るはずがない。それで家来は「待って下さい。待って下さい」と土下座して頼んだ。

  家来の余りの哀れな打ち拉がれた姿を見て、その家来の主人、憐れみてこれを解き、「その負債を免じたり」とあります。

  これが私たちの姿でしょう。神との、キリストとの関係で実をつけていないのに、償い方なかりしかば、神の一方的な自由な憐れみから、その負債を免じられているのが私たちである。

  ですから、私たちは改めて、主よ、憐れみ深い神よ。感謝致しますと、神の前で真に謙虚になるべきではないでしょうか。この憐れみに触れて、神に応答をして行くべきではないでしょうか。


       (完)

                                        2013年8月25日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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