頼もしい母ちゃんが「母なる教会」


                100mに及ぶ宗教改革記念碑がある公園で映画のロケをしていました
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                                         来年は実がなるかも… (上)
                                         ルカ13章6-9節


                              (序)
  皆さんはどうでしょうか。私は長く生きるに従って、自分がどんなに多く人から辛抱されて来たか。我慢され、赦され、忍耐されて来たかと思います。もし忍耐されなければ、今日の自分はなかったでしょう。

  先週は夏休みの最後の週で、Mちゃんとあちこち出かける週になりました。東武線終点の小川町の、その先の寄居に荒川上流のダム発電所を見に行ったり、高崎近くに出掛けたり、また家で工作をしたりしましたが、一緒にしながら、自分も親から色々我慢されて来たに違いないと思いました。

  寄居までの途中、車中で幼稚園から小学4年生までの4人の男の子連れの若いお母さんにお会いしました。子どもたちが、私たちの向かいの座席に座って、ガラすきですが、お母さんが彼らの前に立って、大きなおむすびを袋から取り出して一人ずつ配っているのです。朝食が早かったので、車中で早い昼食のようでした。暫くモグモグしていたかと思うと、食べ終わった子が「母さんもう一つ」と言って手を差し出すのです。するとお母さんは、リュックから大きなもうひと包みを取り出して、食べ終わった子から配っているのです。お母さんは食べずに、配る一方です。まるで、親鳥が、育ち盛りのヒナたちに餌を与えているような光景で、実に見ごたえある姿でした。私も男4人兄弟でしたから、戦後物のない時代にこういうふうに育てられたに違いないと思いまして、自分も、親から忍耐され、我慢されて育てられたのだと思ったのです。

  お母さんは言いませんでしたが、子どもらは無邪気なもので、家に6年生の兄ちゃんと、5年生の姉ちゃんがいるよと教えてくれました。

  子ども6人を育てて、これはもう忍耐を超えて、何でも来いと太っ腹にならなきゃあ出来ないことだと思いました。箴言に、賢い妻は「後の日を笑っている」とありますが、この女性も腹が座って後の日を笑っている感じで、頼もしいお母さんにお会いし、色々考えさせられました。

  中世の時代から「母なる教会」ということが言われて来ましたが、教会は本来このお母さんのように主に在って腹が座り、何でも来いと言って受け止める逞しい所なのでないかと思って、改めて「母なる教会」の意味を考え直しました。

                              (1)
  今日の聖書は悔い改め、改心がテーマです。

  イエスが、実のならないイチジクの木の譬えを話され、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』」と言われたのです。

  この「ある人」は、ぶどう園のオーナー、農園主です。園丁というのは、使用人や僕です。パレスチナでは、ぶどう園にイチジクを植えることは普通だったようです。ちなみに、向こうのイチジクは日本の種類と違って、青いのを食べます。また皮のむき方も、日本と違って反対側から剥きます。無知な私はそんなことを知らなくて、向こうの人にまだ食べられませんねと言って、不思議がられたことがありました。

  神様は、同じものでも、世界に多種多様なものをお作りになって、私たちの狭い考えを打破されます。神様の感性は豊かなのです。それが神の恵みであり、世界の豊かさともなって私たちに与えられているのでしょう。

  「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」

  この主人はせっかちで、ほとんど頭に来ている感じです。ただ、「3年間もの間」の3は完全数で、もう十分な年月という意味です。もう十二分に待ってやったのに、実をつけた試しがない。「だから切り倒せ」と言っているのです。

  普通、この譬えは、実を結ばない木は切り倒されるが、ユダヤ人始めどんな人間も改心しないなら神の救いから切り離されるとの警告だと言われます。「3年もの間」というのは、改心しない人間の頑固さぶりを指しているというのです。ユダヤ人の頑固さぶりは旧約聖書を読むと分かりますが、彼らの頑固さが示されているというのです。

  農園主がこれを植えたのですし、土地はむろん農園主のものです。彼が自分の財産をしたいように処分しても、誰も文句をつけることはできません。たまたまこの木は悪い木だったということでしょう。3年しても実がならない、根性の曲がった木、性根の腐った木ということでしょうか。こんな木に、場所を提供しておくわけにはいかないというわけです。

  そう言って切り倒されて、どこかおかしいでしょうか。無理を言っているでしょうか。もっともではないでしょうか。それが譬えの前半で語られていることです。

  ところが園丁は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と頼んだのです。

  園丁はイチジクの肩を持つ謂われはありません。そんな義理はない。だが彼は、もう少し手塩にかけて育ててみます。切ってしまえばそれまでです。でも、「木の周りを掘って、もう少し丁寧に肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」こう言って頼み込んだというのです。こんな園丁ですから、本当はこれまでも目をかけて育てて来たでしょう。だからこそまた、可哀想と思ったかも知れません。

  先ほど申しましたように、この譬えは回心、悔い改めがテーマで、いつまでたっても改心しないので、主人は直ちに切り倒せと言うのです。だが、僕は執り成すのです。「今年もこのままにしておいてください。」

  ある英訳は、「私に時間を下さい」と訳しています。彼は自分の責任として、「私に時を下さい。チャンスを下さい」と申し出たのです。この木に時間を下さいでなく、自分に時間をください、と。私の責任で育ててみますと言うのです。

  これはイエスの生涯を暗示しています。私たちの救いのために、実のならない私たちのことを自分の事柄として引き受け、十字架についてくださった。そこまで責任をもって下さる。

  御茶ノ水ニコライ堂があります。幕末に日本に来てほぼ50年間伝道したロシア正教大主教ニコライの日記9巻が出版されたそうです。大変な苦労だったでしょう。彼は、「価値があるのは、他を憐れむ心だけだ」と語ったそうです。ここに究極の価値があると。

  この僕は、憐れみの心から申し出たのです。自分の責任で申し出たのです。くり返し言いますが、彼はそう語る義理はありません。主人と一緒になって、切り倒しましょうと言ってもよかった。

  だが、彼はそうしないのです。私たちはどうでしょうか。これ程に他を憐れむ心を持っているでしょうか。「価値があるのは、他を憐れむ心だけだ。」私たちは、こんな価値観をもって人と接しているでしょうか。進んで他を憐れんでいるでしょうか。憐れもうとしているでしょうか。憐れみでなく、冷たくなっていないでしょうか。喧嘩腰でいないでしょうか。この僕は進んで憐れんだのです。

    (つづく)

                                        2013年8月25日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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