み顔の光に照らされて生きる


                    ジュネーブの教会にカルヴァンの椅子があります。
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                                       み顔の光に照らされて生きる (下)
                                       詩編4篇1-9節


                              (4)
  最後に、この信仰者は、「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」と祈りました。

  「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います」とは、神を信じても本当に恵みを与えられるかどうか分からないと疑う人たちの声です。それに対し彼は、「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください。平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです」と語ったのです。

  彼は目を見開いて主なる神、ヤーウエをはっきり見ています。人々が役に立たぬものを愛し、間違った信念や妄想にしがみついて生きること。偽りを神に仕立て、それに頼んで繁栄を憧れる存在であること。自由や平和よりエジプトの肉鍋を憧れるものであること。

  だが、こういう社会を彼は直視する中で、自分の経験から主なる神がいかに信頼できる方であるかを思い出し、どこにも導かない的外れのあり方や罪を離れなさいと語るのです。見当違いの、デタラメな、紛争を煽る言動はやめなさいと語るのです。むしろ罪を離れ、神の前に横たわって心を落ち着かせ、自らを深く反省し、沈黙してどう行動すべきかを見つけなさいと説きます。

  そして、「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」と、今日の中心聖句を語るのです。これは、聖書のあちこちに出てきますが、人間の真の幸福は、「神のみ顔の光」に照らされて生きることだということです。

  「神のみ顔の光」で照らされるとは、神のみが与えて下さる恵み、祝福、真実な生命で私たちが照らされることです。そこに人間の存在の真の祝福があり、最も喜ばしい幸福があるということです。それは、麦とぶどうの収穫の喜び、豊年豊作の感謝と喜びに、遥かに勝る喜びであるというのです。

  人間の欲望は尽きる所はありません。欲望が欲望を生み、さらに欲望を生みます。どこまでもキリがありません。だが、神のみ顔の光に照らされ、足ることを知る。すると幸福が訪れます。

  例えば、私たちは特別素敵な人や羨ましいほど美しい人から、ニッコリ自分にだけ微笑みかけられると、最高に幸せな思いになるでしょう。そうではないですか。私などは特にそうです。もうデレデレになって何でも差し出したくなります。どんなものも惜しくないと思いますネ。

  これは一つの真理を示しています。それは、本当の真理である神の光り輝く笑顔に接した者は、神の真の啓示に触れた者は、それ以上のものは欲しいと思わないほどなのです。そこに永遠があるからで、少しの不足があっても、その光り輝く笑顔だけで永遠に幸せなのです。パウロがそうでした。「キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、一切のものを損と思っている。キリストのゆえに、私はすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」と言ってキリストを証しして行きました。そこに尽きることのない幸福が存在したからです。

  「心の貧しい者は幸いである。天の国は彼らのものである」と、イエスは語られました。この幸いは、神のみ顔の光に照らされて生きる者たちの幸福です。

  空しさを愛し、偽りを求めるのは、実はまだ神のみ顔の光、その素晴らしい至高の光に接していないからです。そのために、至高の光に似せた空しいもの、間違った信念、妄想に近いものを作って、人をそれへと駆り立てるのです。

  結局そこには、恐れがあります。人々と社会に対する恐れ、一番にならなければ蹴落とされるとか、警備を厳重にしなければ危険だという強迫観念です。そういうことはありません。一番にならなくても、自分の興味あるものに打ち込み、人生をゆったり楽しみ、人々を愛して出会いを喜ぶ道は幾らでもあります。

  レンブラントは、神が自分に与えられた天職を信じ、誰の言葉にも惑わされなかったのです。死ぬまで貧しかったですが、その後何世代にも渡って人々を励ますものを残しました。ゴッホもそうです。

  神は人を造って、エデンの園にお置きになりました。エデンとは喜び、楽しみという意味です。経済的にいかに満ちても、享楽的な生活はあっても、喜びや楽しみがない生活というのは、神の意図に反した生活です。経済的に恵まれなくても、喜びも楽しみも、歓喜も与えられるのです。それをこの信仰者は語るのです。

  最後に、「主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです」とあります。これは詩編37篇が良い注釈になるかも知れません。それを読んで終わります。「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。…主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

        (完)


                                        2013年8月18日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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