私の正しさを認めて下さる…


                      やはりレマン湖は素晴らしい眺めでした 
                               ・



                                       み顔の光に照らされて生きる (上)
                                       詩編4篇1-9節



                              (序)
  誰であろうと、自分の正しさを認めてくれる者がいてくれることは、励ましになり、大いなる力になります。たとえそれが犬や猫であってもです。犬は、私がどんな時にも尻尾を振って迎えてくれます。猫は、私が落ち込んで帰っても擦り寄って来てくれます。それだけでも、私たちはホッとし生き返った気持ちになります。

  それに対し、お前は正しくない。お前が悪い。お前がいけない。そんなことを言われ続けたら、誰でも嫌になるでしょう。足元から、崩れそうになるでしょう。

  ですから私たちは家庭でも、職場でも、どこでもどのように語り、どのように生きるかをよく考えなければなりません。

                              (1)
  さて今日の詩篇は、「呼び求めるわたしに答えてください。わたしの正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください」と訴えています。

  この信仰者は、真面目に、正しく生きて来たのです。なのに、なぜこういう苦難に見舞われるのかと訴えるのです。赤ちゃんは、不快なことがあるとアンアン泣いて訴えますが、この信仰者も赤子のように、何度も神に訴えたのでしょう。

  だが、中々答えが聞けなかったのでしょう。彼の不安は、誰が正しいのか分からなくなっていたからです。私の正しさが、多数がつるんだ反対の声によってかき消され、分からなくなったのでしょう。むしろ、私の方が間違っているとさえ思わせられる事態になっていたかも知れません。それが、苦難とある言葉で言い表されています。彼は苦しめられているのです。これは、3人の友に何度も頭から責め立てられたヨブの苦難に似ています。

  だが、この信仰者はなお神に向かいます。神こそ私の正しさを認めて下さる方だと確信して、「苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください」と、神と格闘するのです。

  神の答えはまだありませんが、私の正しさを認め、弁護下さり、支持して下さる方だと、彼は知っていたからです。

  ある英訳は、「苦難にある時、あなたは私を解き放って下さいました」、自由にして下さいましたと訳しています。もしそうなら、彼はこの経験に支えられて、「憐れんで下さい、祈りを聞いて下さい」と、神に迫っているのです。

                              (2)
  3節は、「人の子らよ、いつまでわたしの名誉を辱めにさらすのか。むなしさを愛し、偽りを求めるのか」とあります。この「人の子ら」はキリストでなく普通の人間のことですが、ここに至って、彼が置かれている状況が明らかにされます。

  「いつまで」とあるように、かなり長期にわたって辱められて来たのです。日本語の文章は曖昧ですが、「いつまで」は、次の「むなしさを愛し、偽りを求めるのか」という文章にもかかります。

  「むなしさ」とは、妄想とも、間違った信念とも訳される言葉です。また「偽り」とは単なる偽りでなく、「偽りの神々」のことです。すなわち、あなた方、人の子たちは、いつまで妄想に近い間違った信念や、偽りに満ちた偶像の神々を慕って、私の名誉を辱めるのかという意味です。

  彼らは客観的な事実に基づかず、偽りのでっち上げた神々に基づいて、歴史を作り変え、私の名誉を公衆の面前で辱めるのです。最も大事に、大切に思っているものが罵倒され、嘲けられ、踏みつけられたのです。これほど耐え難いことはありません。だからこそ、彼は「私の正しさを認めて下さる神」を切に求めていたのです。

  聖書の言葉に分け入って行きますと、この詩編は今申しましたような具体的な状況が明らかになります。

  繰り返しますと、「人の子らよ」とあるように、複数の者らが、妄想とも言える間違った信念を持ち寄って、結託して押し寄せて来るのです。攻めて来るのです。こんなことは赦せないことです。こんなことがあれば、私たちなら眠れないでしょう。

  この信仰者は、だから、「人の子らよ、なぜこんなことをするのか…」と語った後、「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ」と、命じるのです。

  「知れ」です。命じるというのか、彼らに向かって、ぶつけるのですネ。実際にぶつけることができたか、ただ心の中でぶつけたのか分かりませんが、相手に、「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ」とぶつけるのです。「罪を離れよ」とぶつけるのです。寝床に横たわってじっくり自分がしていることを反省し、真実に立っていない自己を振り返って「沈黙せよ」とぶつけるのです。ぶつけざるを得ないでしょう。

  相手にぶつけていますが、自分自身にもぶつけているのです。「主は必ず、主の慈しみに生きる人を見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。」彼の叫びです。訴えです。絶叫に近い祈りです。

  「主の慈しみに生きる人を見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ」とは、主なる神、ヤーウエは正しく、恵み深い神である。その慈しみに生きる者に、驚くべきことを必ずなされると知れ。誰か第3者のことでなく、紛れもない私にみ手を伸べて下さると知れと、自分自身を、ヤーウエを証する者として差し出していくのです。まだ問題は完全には解決されていないのですが、必ず解決して下さると自らを指し示すのです。すごい信頼だと思います。

  人の子らよ、あなた方は私の誉を辱め、私の心の重荷になっている。それはあなたがたが根本的には、空しさを愛し、偽りと幻想を、価値なきものを、イリュージョンを愛しているからである。それらは錯覚に過ぎないのに、それをテコにして押し寄せてくる。

  だが、主なる神、ヤーウエこそ歴史の中で自らを啓示された真実な神である。幻や幻想でない神である。主なる神は、主の慈しみに生きる人を必ず見分けて、呼び求める声を聞いて下さるのだ。

        (つづく)


                                        2013年8月18日




                                        板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif