重荷を下ろして歩む道
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悔い改めなければ (中)
ルカ13章1-5節
(2)
さて、イエスは人々の質問に、2、3節で「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と語られましたが、それだけでなく、「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人」に触れて、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と語られたとありました。
最初の答えで十分なのに、珍しく、同様の趣旨の喩えを繰り返されたのです。ということは、これは大変重要なことだったからでしょう。
どの点で重要か。1つは、災難と神に対する罪の重さに直接の因果関係はないということです。因果応報の考えをイエスは取られません。
大地震の被害者、原発の被害者。そこに彼らの罪が他の人より重かったからという考えは通用しません。そこにあったのは、これまで政治家が、良心的な科学者の意見に耳を傾けてこなかったからです。「原発は絶対大丈夫だ」という安全神話を作ったところに罪があります。彼らではありません。
想定外の事故が起こったとよく言われますが、私には想定外ではありませんでした。これまで4、5度、原発を見学しましたが、あの高慢な態度の中で語られる安全神話では、必ずこういうことが起こると思っていました。
イエスは、ファリサイ人や律法学者が考える因果応報主義に対して、「あなたがたも悔い改めなければ滅びる」と警告されたのです。これが第2の点です。
むろんイエスは、ガリラヤ人やシロアムの事件で死んだ人たちの滅びとは違った次元で、「悔い改めなければ滅びる」と警告されました。前者は肉体の死ですが、イエスの言葉は神の前での魂の死です。存在と人格の死滅。そのことへの警告です。
別の言葉で言えば、イエスが、「体を殺しても、魂を滅ぼすことのできない者どもを恐れるな。殺した後、地獄に投げ込む権威を持つ方を畏れよ」と言われたように、イエスはここに問うている人たちの魂への配慮をしておられるのです。愛の警告です。
イエスは宣教の初めに、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語って、ガリラヤの町や村を回って伝道されました。
神のご支配があなたがたの間に来ている。神が支配される新しい時代が今、あなたがたの所に近づき、迫っているのだ。その神の国の光に向かって、心を翻して生きなさい。心を入れ替えて生きなさい。生き方の方向転換をしなさい。これが、イエスがガリラヤの宣教で語られたことです。
悔い改めは懺悔(ざんげ)ではありません。くどくど後悔することでも、慙愧の念に駆られることでもありません。生き方、考え方の180度の方向転換です。考え方の根本をすっかり入れ替え、自分の行為で義とされようという自己の義への依存でなく、その考えを捨て去って、キリストに信頼し、キリストを全生活の主とすることへの変更です。
思い煩っていては何も出来ないでしょう。自分の限界を受け入れ、自分の弱さ脆さを受け入れなければなりません。自分や人の中にある傷つけるものの上に住むことは出来ません。「たとえ私たちの心が自分を否定しても、神は私たちの心より偉大です」とパウロは語っています。イエス・キリストは自分のことに熱中するように私たちを招かれたのではありません。そうではなく、謙虚に悔い改めるように招かれたのです。
悔い改めとは、「自分の過ちをキリストに委ねていく信頼の躍動」(Br.ロジェ)。それによって私たちは自分からも人からも自由にされ、解放されて、今の時に打ち込んで、真剣に生きていくことができます。
イエスのところに来た人たちは、人のこと、ガリラヤ人のことを問題にしているだけで、自分のことが問題になっていません。自分を問題にする中で、自分の罪も過ちも弱さも思い煩いもキリストにすっかり明け渡し、委ねていく事へ前進すること。
そこに滅びでなく、重荷を下ろして歩む道が、肩の荷を軽くして生きる、喜びの道が、命へと至る道があるのです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とは、そういうことを意味します。
(つづく)
2013年8月4日
板橋大山教会 上垣 勝
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