誰も気づかず歴史を改変する


                                        (写真クリックで拡大)
            テゼの食事時。難民キャンプではありません。
               食事作りも配膳も後片付けも来た人たちのボランティア。
                   救護所の医者や看護婦も参加者のボランティアです。薬代も手当ても無料。
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                                           悔い改めなければ (上)
                                           ルカ13章1-5節


                              (序)
  すべての被造物は神の救いを切に求めています。むろん人間もそうです。

  ただ、ある人にとってはお金が、ある人にとっては名誉が、ある人にとっては権力が、ある人にとっては美貌、頭の良さ、才能が、切に求める自分の救いです。頼ろうとしているものです。それらは実は本物の救いの影であるに過ぎませんし、神の救いにおいて初めて真の喜び、満足、平和を得ることができるのですが、今は分からないので神の代用物、神の影を追っているのです。

  しかし、彼らも本物の救いを求めていることに変わりはありません。

  ですから、私たちは本物の救いであるイエス・キリストの神に集中するのです。この方こそすべての人を救い、すべての被造物に救いを与える方だからです。

                              (1)
  さて、今日の所には、「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』」とありました。

  この何人かの人というのは、イエスの答えから推測して、ガリラヤ人を蔑視する人たちであったに違いありません。ですから、「ざまあみろ」という気持ちでイエスのところにやって来たのでしょう。イエスガリラヤ出身ですから、イエスへの挑戦も含むかも知れません。

  「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」というのは、総督ピラトがガリラヤ人を血祭りに上げ、その血をユダヤ教の過越しの祭で献げられる動物の生贄に混ぜたとも、ユダヤ教の祭りでなく、ギリシャの神々に献げたともとれます。

  いずれにせよ、神に供える生贄に人間の血を混ぜるというのは人と神への冒涜以外の何ものでもないでしょう。おぞましい仕打ちです。これはユダヤ人の反感を買ったに違いありません。今日は取り上げませんが、人類の歴史をひもとくと、そういう残酷な事が無数にあります。人類の歴史は人間の罪の歴史です。

  イエスを十字架に付けるピラトを見ると、彼はユダヤ人の暴動を恐れていますから、ユダヤ人の猛烈な反発を買うこんなことをする人間とは思われません。

  思われないのですが、人間というのは時と場合によっては、とんでもないことをしでかすもので、普段心の中に貯めていたものが、何かの拍子に思わず外に噴出する場合があります。

  イエスは、「人の口は、心に溢れていることを語る」と語られた事がありました。総理大臣の経験もある麻生副総理が、憲法をどういう手順で変えるのかを語って、「ナチスの手口に学んだらどうかね」と語ったといいます。ナチスの手口に学べ、普段そんな思いを持っているから、本音が飛び出したのでしょう。余りにひどい考えです。ヨーロッパなどでは大問題になり、直ちに政治生命は絶たれるでしょう。謝罪しても、その心がある限り将来大変なことを仕出かさないとも限りません。恐ろしい人物です。日本社会がここまで来ていることを、諸外国は改めて噛み締めた筈です。

  いずれにせよ、ピラトは普段ユダヤ人の抵抗にあっているので、何かの拍子に憎しみに駆られてユダヤ教の犠牲にガリラヤ人の血を混ぜたかも知れません。

  それにしても、この事件がどこで、いつあったのかはまだ確かめられていません。事件の真偽は何とも言えない。ただ、全く無かったことを聖書が書いていると思えません。

  歴史の記述というのは常にこうです。後世に残らない事件が無数にあります。また暫くは残っても、後から改変されたり抹消され、歴史の闇に葬られることもしばしばです。

  その意味で、旧約聖書が自分たちが行った罪の記録を書き連ねて、それを何千年も改変せず正直に伝えているのは驚くべき事です。まさに人類の尊い遺産です。

  今日は平和聖日です。68年前の戦争を振り返り平和を考える時であるので、どうしても今日の政治に触れますが、安倍政権がしようとしているのは、日本は侵略しなかった。南京事件もなかった。従軍慰安婦も本当はなかった。村山談話を見直すべきだと歴史の改変作業です。できれば誰も気づかないうちに改変したいはずです。

  日本のあの戦争は正しかった。正当だった。敗戦国になったので、罪をなすりつけられて侵略者、加害者にさせられただけである。この汚名を返上しなければならない。小学校から子どもたちにそう教え込んで、日本人の誇りを取り戻さなければならないと考えています。

  歴史の改変。抹消。本当に困りますが、ただ、国内でそれをしても諸外国は抹消しないでしょう。抹消すれば、独りよがりになりますから、それを貫けば外国との摩擦が強くなるだけです。我を貫けば、国際連盟を脱退した戦前の轍を踏むかも知れません。どうして政治家は分からないのでしょう。

  今週は広島、長崎の被爆の日がありますが、大陸での日本軍の侵略、残虐行為が十二分に語られる中でしか、原爆投下の酷さは語れません。一方だけを強調するとちぐはぐなおかしいものが生まれます。広島平和記念資料館の展示を何回か見て思うのは、日本軍の侵略がサッと描かれるだけで、原爆被害を克明に展示しています。克明な展示はぜひ必要ですが、日本は加害者でも被害者でもあった深刻な罪の事実を直視しなければ、歴史を見誤りますし、説得力は薄れます。いつかこのことは、この資料館について世界の人から問題にされるでしょう。

        (つづく)


                                        2013年8月4日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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