寅さんの自由に思う


                 スイス、フランス、ドイツの国境がここバーゼルで交わっています                     
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                                          平和こそわが喜び (下)
                                          Ⅱテサロニケ3章16-18節
      

                              (3)
  パウロは平和を祈り、最後に、「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます」と書いて、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように」と、祝福の言葉を記して終わっています。

  祝福、英語ではブレッシングです。聖書の語るのは人類に対するブレッシング、祝福です。祝福とは、恵みに恵みを加えられることです。年間一億円稼ぐとか、年収150万円だとか。そういう人間の諸条件によりません。キリストの祝福があるとき、いかに卑しく、低い、罪深い者でも、その人自体が神から肯定され、祝福されるのです。ですから人間らしくイキイキさせられるのです。

  聖書には裁きが沢山書かれている。神は裁きの神だと言う人たちがありますが、違います。祝福、ブレッシングが、キリストの来られた目的です。そのために神は御子をお遣わしになったのです。

  創世記でも、アブラムは「あなたの国を出て、親族から別れ、父の家を離れて、私の示す地に行きなさい。あなたを祝福の基とする」と言われて、「行先を知らずに出て行った」とあります。神がアブラムをお選びになったのは、人類を祝福するためでした。彼以外の人を呪うためでも、裁くためでもありません。

  神の自由なる恵みの福音です。キリストはそのことを告げに来られました。それでパウロは、その神の祝福、「恵みがあなたがた一同と共にあるように」と書いて彼は筆を置いたのです。

                              (4)
  最後に先週、私たちは関田寛雄先生を通して素晴らしい恵みを与えられました。多くの方が参加されたのも感謝でした。

  私はお話を聞きながら、「お兄さんはいいわね。お魚みたいに自由で」という言葉を耳にして、寅さんのように私たちも3週間、「お魚みたいに自由に」飛び回っていたのを気恥ずかしく思いました。

  そうしたら、月曜か火曜に、伝道礼拝にお誘いしたある方から葉書を頂きました。用事があって参加できなかったのが残念でしたと書いた後、「日々の雑事を投げ出してトランク一つの旅に憧れますが、そこには寅さんにしかできないものがありますよね」と記しておられました。

  寅さんと私たち生身の人間の差は何かと言っておられるわけです。「寅さんにしか」という率直な言葉に、耳を傾けなければならないものが潜んでいると思いました。もしこの方がいらっしゃっていれば、懇談は更に面白くなったでしょう。

  お葉書を読みながら、別のことも考えさせられました。それは先生のお話の趣旨と違いますが、もし先生が語ろうとされた自由の意味を別の意味で受け取るなら、逆効果になると思いました。

  「兄さんは、お魚のように自由でいいわね。」素晴らしい言葉であるとともに、自由には毒が含まれています。この自由を、風の吹くまま気の向くまま、何をしても勝手である。お魚のように自由に生きていいのだ。思うがままに帰って来て、思うがままにまたふらっと出かける。そうだと、一緒に重荷を担わない、苦しみを共にしないということになりかねません。

  実際、寅さんは心に残る言葉は発しますが、誰の重荷も負いません。

  まさに、「日々の雑事を投げ出してトランク一つの旅に憧れますが、そこには寅さんにしかできないものがありますよね」です。寅さんに憧れていい。だが、寅さんになっちゃあいけないのだと私は思いました。

  先生は、寅さんはキリストの自由を指し示していると言われましたが、寅さんになろうとか、寅さんになりなさいと言われませんでした。

  私が申し上げたいのは、誤解を招くといけませんが、私も寅さんに憧れますが、寅さんでは何も建設しないと思います。寅さんはサクラや柴又の現実の重荷を負う人たちのところに留まりません。書き入れ時の一番大変なときに、フラッといなくなる。気になる言葉は言うが、責任を負わない。

  だが、愛は踏みとどまります。共に重荷を負おうとします。共に悩むのです。だから雑事を投げ出しトランク一つを持って、ふらっと旅に出ていけない。愛するからです。

  姜尚中(カン・サンジュ)さんが先週聖学院大の学長に選ばれましたが、最近「悩む力」という本を書かれました。

  私はこんにち、共に悩む力が、共に重荷を担おうとする力が重要だと思います。しっかり一緒に悩まなければならない。イエスは悩んでくださった。肉体を裂かれ、血を流し、十字架にかかってまでも共に悩んでくださったのです。

  自由には二つがあります。一つは寅さんも指し示す世の束縛からの自由です。お魚のように自由に生きていいのです。だが、その自由を自分のために使わないで、仕えるために、愛するために、共に悩むために、重荷を担うために使う自由。こちらの自由は愛のための自由です。

  この自由は、心に平和を与えられなければ生まれてきません。人からの自由ばかり求めるだけで、奉仕への自由は生まれません。しかし、心にキリストが来て下さるなら、「心の平和からだけ社会の平和が来る」というようなものとなって現実化するのです。

  争いに血塗られた、人類の長い長い歴史にさえ和解を与える作業は、神がお与えくださる心の平和からしか生み出せないのです。スイスの人たちはそのことを知っている。世界の平和は私たちの心の中から始まるのです。歴史と社会の平和に積極的に参与するのは、この内的な心の平和であります。だからパウロは、「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように」と祈ったのです。

  主がお与え下さる平和をわが喜びにしていきたいと思います。


        (完)


                                       2013年7月28日


                                        板橋大山教会 上垣 勝



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