キリスト教が説き続けたこと


                             リヨンで
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                                           平和でなく分裂 (下)
                                           ルカ12章49-53節


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  ただ注意がいるのは、イエスは、憎しみを加えるために分裂をもたらされたのではありません。争いのために来たのではありません。更には、イエスは人を裁き、相手を殺すために来たのではありません。むしろ反対です。

  イエスは人々の救いのために光として来たのですが、分裂が起こったのです。ここで重要なのは、光として来て十字架につけられたことです。光が殺されるのです。分裂の中で、光が闇のために犠牲になっていったのです。しかも先ほど言いましたように、「彼らをお赦しください」と祈って、神に執り成されたのです。

  暫く前に、竹下節子という長くフランス在住の方が書いた、「キリスト教の真実」という本が出ました。カトリックの歴史を研究して色んな本を出しておられます。

  この方は、日本人の間違った常識を糺(ただ)そうと意欲的に取り組んでおられます。これまで暗黒の中世として切って捨てられた中世カトリックの働きに光を当て、世界の歴史がいかにキリストが来られたことによって決定的な影響を受けて来たか、今も受けているかを論証しておられます。ややカトリックに肩入れし過ぎているのが気になり、プロテスタントへの誤解も散見しますが、教えられるところが多く読み応えがあります。

  それを読んでいて、そこには出てきませんが思い出したのは、半年前の12月にアメリカの小学校で起こった事件です。銃を持った犯人が、小学校低学年の教室に乱入して26人の児童や先生たちを殺したのです。校長先生や何人かの先生は、子どもたちを守るために犯人の前に立ちはだかって殺されていきました。犯人は直後に自殺したということだったと思います。去年のクリスマス前のことで、ご記憶の方もあるでしょう。

  その時に私はここで申しましたが、やがて町の人たちが犠牲者の追悼会を開きました。その時、犠牲者の数に合わせて大きな石を前に積んで追悼会を持ちました。だが実際には26個でなく、それにもう一つ石を加えて、27個の石を積んで追悼会をしたのです。この1つは犯人のための石だったようです。また方々の教会では、27人の為に祈りが捧げられました。日本ではこんなことは殆ど報じられなかったと思います。

  これは日本人の私には、腰が抜けるほど大きな驚きでした。加えられた1個の石は犯人のための石だったからで、犠牲者だけでなく、犯人も含めて、彼をもキリストに委ねて追悼したのです。ショックでした。

  日本ではこういうことは決して起こらないでしょう。むしろ犯人への憎悪、憎しみ、抗議、許せないという声を新聞は何ページにもわたって書き立てたでしょう。何とか胸がスッとする様な、すなわち恨みを晴らす言葉を探して記者は書いたはずです。

  だがその町の人たちは違ったのです。無論こんな虐殺は許されません。許しません。しかし、もし日本でこんな追悼会がなされたら、喧々諤々どんなに非難が飛ぶことでしょう。人の心を持たない人たちだ、酷すぎる、行き過ぎだ、被害者が可哀想だ、偽善者だ、いい加減にしてくれと抗議が来たでしょう。

  イエスは十字架上で、自分を殺す人達のために赦しを祈ったのです。また、敵を愛し、迫害する人たちのために祈りなさいと命じられました。この町の人たちが、この影響のもとにあるのは明らかです。

  イエスの言葉に従う人とそうでない人との、分裂が起こるのです。光が来たため分裂が起こるのです。だが真理によるこの分裂こそが、この世界が新しくされるために必要なのではないでしょうか。世界を真の世界に変えていくための分裂ではないでしょうか。これは「正義のための戦争」や、「憎悪のための分裂」では決してありません。この違いをしっかりしなければなりません。

  日本維新の会共同代表の橋下市長は、戦時中の旧日本軍の従軍慰安婦について「猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」などと発言しました。どんなに訂正しても彼の思想は明らかです。更に米軍司令官に、「もっと風俗業を活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的エネルギーをコントロールできないじゃないですか。建前論じゃなくて、もっと活用してほしい」と語りました。アメリ国防省は、「我々の方針や価値観、法律に反する。我々は地域の人々に敬意を払うよう心がけており、いかなる問題であれ買春によって解決しようという考えは持っていない。ばかげている」と話したと言います。

  しかも前都知事も、橋本市長の発言を擁護しました。これが美しい国、日本でしょうか。とても悲しくなる酷い社会です。

  先程の竹下さんの本によれば、キリスト教は、既に10世紀の終わりから、ということは日本で言えば源氏が現れる2百年も昔に、戦士や騎士に対して、キリストの教えを守るよう誓約を課しました。敵への過酷な攻撃、非戦闘員への攻撃、拷問、レイプ、略奪の禁止を明言し、それを破る者を破門したのです。それでも今日までこうしたことが無くならないのですが、教会は諦めず、この世にとっては決定的に革新的なことを説いて来ました。

  敵への過酷な攻撃というのは、今日化学兵器の使用禁止というふうになっています。非戦闘員への攻撃というのは、一般市民、丸腰の人たちへの攻撃禁止ということになって引き継がれて来ました。実際には行われていないではないかという疑問があるでしょう。あるのは当然です。だが諦めず説いて来たのです。

  諦めず、決定的な革新的なことを説き続けることが大事です。それは、イエス・キリストが歴史に介入されたからです。そして実際、教会は2千年にわたって説き続けたからこそ、平和主義や暴力の軽減、また基本的人権、男女平等などが少しずつ進展したのです。もしキリストが来られなければ、未だ橋下市長のような意見が、世界で幅をきかせていたでしょう。

  この考えは1千年以前の古い人間観です。こうした考えは人類の歴史を前進させるものではありません。キリストに導かれなければ、人間観はいつになっても改善されないでしょう。むしろ、やられたらやり返せ、報復には更に多くの報復をという考え、日本軍もしたが欧米軍もしていたろうという自己批判のない野蛮な論理、恐ろしい人間観が顔を出すでしょう。政治家は過去に為したことに誠実でなければなりません。そうでなければ歴史は繰り返されるでしょう。

  しかし、復讐を戒め、敵を愛し、迫害する者のために祈れと語られ、武力による征服に異を唱える平和主義の教えや、「平和を実現する人たちは幸いだ。その人たちはかみのことよばれる」というキリストの教えは、日本社会でも全世界でも、必ずやがて普遍的に妥当するものになるでしょう。今も普遍的になりつつありますが、やがて世界の国々にあまねく妥当し積極的に採用されるものになるでしょう。真理だからです。

  イエスはパン種の譬えを話されたことがありましたが、キリストの決定的に革新的な価値観は世界の中にパン種、酵母のようにゆっくりと作用していくでしょう。イースト菌は徐々に作用するのであって、一挙に菌は増殖しません。パンが膨らむには時を待たねばならない。だが、少しずつ神の御心が地にも行われるものになるに違いありません。1千年かかるかも、1万年、10万年かかるかも知れませんが必ず地上に実現するでしょう。

  私たちはその歩みを、妨げる者でなく、少しでも推進する者でありたいと思います。主の祈りで、「御心の天になるごとく、地にもならせたまえ」と祈るのはこのことです。私たちは小さい者ですが、この祈りを心を込めて祈り続けたいと思います。

  人類の歴史には暴力と戦争の時代がくり返し現れましたが、世界は、「それでも十字架のキリストから向けられる平和主義の圧力を絶えず受け、促されつつ、少しずつでも『暴力の軽減』へと」向かっています。それが実現するまでのプロセスでは幾つもの前進があり後退があるでしょうが、平和へと向かうでしょう。

  イエスは私たちに、「あなたがたは地の塩である。世の光である」と言っておられます。

       (完)


                                         2013年6月16日




                                         板橋大山教会 上垣 勝



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