平和でなく分裂


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                                           平和でなく分裂 (上)
                                           ルカ12章49-53節


                              (序)
  今日の箇所はなかなか難しい箇所なので、上手くお話できるかどうか分かりませんが、私が語るところを超えて聖霊が働いてくださり、皆さんにキリストの福音が届けられるようにと祈ります。

                              (1)
  さて、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」とありました。

  この49、50節を51節以下から切り離して考えますと、この火は愛の火とも、信仰の火とも、また聖霊の火とも受け取れるでしょう。人々の中に信仰や愛の火が灯されるために、イエスは十字架の洗礼を受けなければならない。すなわち火の洗礼であり死の洗礼であり、苦き苦難の杯を飲まねばならないという意味になります。

  後で気づきましたが、ある英訳聖書は切り離して別々にしていますからそういう理解も成り立ちます。イエスの苦難の十字架と死こそ、罪のために死んでいた私たちに、聖霊の火が灯される偉大な源となると言えるでしょう。

  しかし、日本語の聖書は50節で終わらず51節以下にも続いていまして、イエスは、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」と語られたとなっています。

  言っておくが、平和でなく分裂だ。これは何と衝撃的な言葉でしょう。平和ボケをしていた私たちは、一瞬イエスの言葉の前で棒立ちになるのではないでしょうか。

  私自身、イエスの言葉を何とか緩めることができないかと悩みます。言っておく、平和でなく分裂。これは余りにも酷すぎます。

  もしキリスト教にいい思いを持っていない人がいたら、これみよがしに、「だからキリスト教は分裂を作り出す宗教だ。キリスト自身、平和でなく分裂をと言ったではないか」と勝ち誇ったように言うに違いありません。もしそう言われたら、どう返答すればいいのでしょうか。「51節が紛れもない証拠だ」とダメ押しされれば、二の句も告げず、降参するのでしょうか。

  ところでイエスは別の箇所で、「平和を実現する人たち、平和を作り出す人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とまでおっしゃいました。ルカ福音書2章には、羊飼いたちが御子の誕生の夜、「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」という声を聞いたのではないでしょうか。またパウロは、「キリストは私たちの平和であります」と告げましたし、彼は「平和の福音」を声を大にして説きました。

  ところが今日の箇所では、イエスは厳然として平和でなく分裂を語り、家族の分裂さえ具体的に語っておられるのはどうしたことでしょう。

  私は昔、東南アジアで井戸掘りのボランティアをしました。インドネシアの余り知られない小さな島です。数十人の現地の青年たちと井戸を掘りました。乾季には遠くまで水汲みに行かなければならない場所でした。井戸は水脈を探し当てて掘らなければ水は湧きません。私たちが掘った井戸は、最初はドンドン面白いほど掘り進みましたが、5mほど掘り下げたところで大きな岩にぶつかりました。青年たちがそれを掘り出そうと懸命に働きましたが巨大な岩はびくともしません。それで、鉄の棒やハンマーなどで壊しにかかりますが、特別硬い岩で、本当に手を焼きました。

  私はこの御言葉の前で、その時以上に手を焼いてしまいました。どうしても砕けない硬い岩。それが今日のイエスの言葉です。どんなにこじつけても、いや、聖書をこじつけて解釈していい訳ではありませんが、どんなに考えても、分裂という言葉の意味は変わることはありません。

  こういう時は安易にここを理解しようとせず、そのまま理解しなければなりません。「平和でなく分裂」。ここにキリスト教の生命があるという風に、です。「平和でなく分裂」、これがなくなればキリスト教の一切がなくなると考えてここを理解しましょう。

                              (2)
  イエスは、自分が来たのは分裂をもたらすためだと語られます。酷い言葉です。だが、どんなにこの言葉から裁きの要素を外そうと躍起になっても、井戸の巨大な岩石のように厳然と存在します。

  ここで目を止めなければならないのは、弟子たちより、イエスご自身が先ず、火のような試練の洗礼を受けなければならない。その洗礼を受け終わるまでは、どんなに苦しみ、悶えざるを得ないか。恐ろしい体験が待っているかと語られたことです。

  イエスユダヤ人が考えていた救い主メシアではありませんでした。軍隊を引き連れ、敵軍を征服するメシアではありません。反対に、多くの人のために命を捨てられるメシアです。外国人や女性、徴税人、ハンセン病者、歩けない者や目が見えない者など、社会で差別されていた者と愛をもって対等に交わられました。自分の命を犠牲にして敵をも愛されました。十字架の上で酷い苦しみを受けながら、息を引き取る前には、「父よ、彼らをお赦しください」と彼らへの赦しさえ語って、最後にすべてが成し遂げられたと言って息切れ、亡くなられたのがイエスです。

  象徴的に申しますと、光が射せば、当然、闇の姿が明らかになります。一度試してください。今は梅雨時で、教会の狭い庭の枯葉を除けると、その下の土に昼間は姿を見せることのない気持ち悪い虫たちがウヨウヨしています。真理が来れば、偽りの姿が明らかになります。彼らが偽りというわけではありませんが…。

  無論、私たちは今日それほど厳しい選択を迫られることは殆どありません。だが中に、光を愛するか闇を愛するか、キリストを愛するか地上のものを愛するかが問われる場合があります。その場合、親との間で、子どもとの間で、夫婦の間、兄弟の間、舅姑との間で、キリストは平和でなく分裂となって働くことがあります。そのような時も、キリストを選ぶかどうか。それが問われているのです。キリストは神の永遠の真理です。この真理が家族を引き裂く場合があります。

  昔、渡良瀬川足尾鉱毒事件があった時、多くの農民、一般民衆が鉱毒の混じった川の水、井戸水を飲んで苦しみの中で死んで行きました。

  だが明治政府は富国強兵、脱亜入欧の政策を貫き、繁栄を築くために、足尾銅山の推進をやめなかったのです。今の政府の原発政策も同じで経済と富国強兵が最優先です。経済発展という袈裟の下に戦争のための鎧が見え隠れしています。

  そのために田中正造天皇に直訴してまで渡良瀬川流域の民衆の窮状を訴えました。ここに出席しておられる中学生も習っておられるでしょう。またキリスト教の島田三郎、木下尚江、内村鑑三安部磯雄など、またキリスト教婦人矯風会の人たちが鉱毒反対に深く関わって運動をしました。

  そうした中、鉱毒反対の演説会に参加したある婦人は、夫がそれに加担していることを知って、帰宅すると、加担をやめるよう強く迫ります。しかし夫は妻のことなど無視です。やがて夫人は責任を感じて自殺を図ったのです。自殺は残念ですが、夫への最大の抗議であり抵抗であったと聞いたことがあります。

  いま原発事故の収束さえしていない時期に、首相はインドやカンボジアやその他の国々に原発を売りに行きました。安倍夫人は、夫と意見が違うような態度を示して、「家庭内野党」という言葉で笑いを誘いながら夫の政権を支える内助の功を果たして、批判を和らげようとしていますが、真面目に原発問題を考える人なら、笑いを誘うためでなく体を張って抵抗するでしょう。そこまでの、切れば血が吹き出るような真実がある人であるかどうかです。

  このような意味で、イエスの到来は分裂を意味しました。それが現実になり、まれにキリスト教が家族を2つに裂く場合も起こりました。キリストと家族や親戚とどちらを多く愛するのか。人々は決断の前に置かれました。

       (つづく)


                                         2013年6月16日




                                         板橋大山教会 上垣 勝



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