疲れない愛ってあるの?


                        オランジュの皇帝アウグスト像
                               ・




                                            求道者キリスト (下)
                                            ヘブライ5章7-10節


                              (3)
  ヘブライ書2章は、イエスはあらゆる仕方で全く人間になり兄弟姉妹になられた、「イエス御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」と述べています。これは何と私たちに希望を与える言葉でしょう。激しい苦しみやトラブルを経験している人は、あなたはもはや一人ではないのです。キリストがあなたと、生きるか死ぬかの瀬戸際に立って苦しみ、あらゆる時に共におられるのです。神の御子が共におられます。

  患者に親身になって相談に乗って治療にあたっていたお医者さんが、自分も病気になって手術も受けられた。その後患者の辛さや痛みがどんなものかが分かって、一層患者に寄り添ういいお医者さんになられたということを聞いたことがあります。

  イエスはそういう方です。悩みなきキリスト、苦しみなきキリスト、安逸のキリスト。そういうキリストは偽りであり、救いはありません。

  求道者であり苦行者のキリスト。しかも、その苦行は自分のためだけでなく、私たちの救いの源となる苦行です。それが、先程から申しています8節以下の、キリストは御子であったが多くの苦しみによって従順を学び、完全な者となられたので、御自分に従順である全ての人に対して、「永遠の救いの源となり…」と言われている事です。

  イエスは生涯を通して私たちに教えられました。激しい苦しみやトラブルも私たちの存在の一部です。生きている限り苦しみとトラブルは必ずあります。悩むのが人生です。

  現代人は色んな宣伝に踊らされます。宣伝がうまく、私たちがそれを望んでいるかのように思わせます。ある会で、年配の一人の女性が発言されて、多分テレビのことでしょう、顔に皺ができないようにするにはどんな化粧品がいいとか、どうマッサージすればいいかと言うが、「顔に皺が出来ちゃあ悪いの。どうして悪いの。最近の日本社会はどうかしている」と言っていました。顔に皺があると幸福になれないかのような言い方というのは、確かにどうかしているでしょう。問題があってはダメなのでしょうか。トラブルがあっては、傷があっては、苦労があってはいけないのでしょうか。それは欠陥商品でしょうか。むしろシワこそ、長い人生で刻まれた労苦と知性の表れではないでしょうか。エッ、それだけじゃありませんって?

  人生は美しい。だが同時に複雑です。私たちが納得できず、変えることができない人生であっても、それも進んで迎え入れ、人生を受け入れることが、私たちの存在を新しく作り変えていく第一歩になるのではないでしょうか。

  イエスは神の御子だから、従順を学ぶ必要はないというのではないのです。同様に、キリスト者は救われた。贖われた。だからもう何もしなくていいというのではありません。そんな信仰は詰まらない信仰です。むしろ救われたから、新しい歩みが出来、隣人に、世界に向かって新しい一歩を歩み出せます。

  パウロもキリストとの関係で新しい一歩を歩み出した人ですが、彼はコリント前書で、私は闇雲に走ったり、空を打つような拳闘はしないと言ったあと、「むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と語りました。彼の信仰が活き活きと生きていたからでしょう。

  鋭い正確なパンチを他者にでなく自分に浴びせるのです。自分の体が甘え、心が怠けるから、自分を服従させるのだと言うのです。ここに、キリストに応答する男らしい一人の人間がいます。

                              (4)
  8節に、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみにより従順を学ばれました」とありました。従順という言葉で、皆さんはどう反応されるでしょう。むろん個人差がありますが、現代人特に若者にとっては余り耳障りのいい言葉ではないと思います。従順はしばしば、服従や従属、更に隷従を意味するからです。従順の名において、これまでの歴史で多くの不正義が行われ、弱い者が従順を押し付けられ、不当なことを強要されて来ました。今でもです。家庭や職場はどうでしょうか。

  その反動で、反動というより正当なことですが、平等と人権尊重、貴い存在として自分を受け取る現代の文化にあって、私たちは従順について語るのがためらわれるのです。

  ただ、従順という言葉は、ギリシャ語でヒュパコエーと言って「聴くこと」を意味します。英語はオビージェンスですが、これはラテン語のオブ・アウディレという語に由来します。いずれも従順という言葉は、日本語とは違って本来、「聴くこと、しっかりと耳傾けて聴くこと」という意味です。心を据えて神に聴くことは信仰生活において大変重要な要素です。

  イスラエルの人たちは、毎日、「聞け、イスラエル。あなたがたの主なる神はただ一人である」と言って祈ります。

  ヘブライ書2章1節には、「だから、私たちは聞いたことに一層注意を払わなければなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」とあります。2千年前の人も今の私たちと同様に、社会の流れに流されやすかったのです。だから神の言葉に耳を傾けて聴くことによって、社会に押し流されないように、生きるべきだと語るのです。

  聖書で言われる従順は、押し流されないようにキリストの言葉に耳を傾けて聴くことです。神への従順こそ人を主体的にする。右顧左眄しない独立的な人を生むと語るのです。それは私たちを喜びの人に、自由の人にし、色々な事があっても生きる方向を見失わない人にすると語るのです。

  イエスも、神のご計画を理解するために、生涯神に耳傾け、聴かれました。耳を傾けて聴くためには、それに向かって心をオープンに開かねばなりません。イエスはオートマチックに、ただ自動的に神の意志を行われたのではありません。神の御子であるとはどういうことか、神の愛を理解し、愛を生き抜くために、心の中でどう決断すればいいのかを理解していかれました。そして、愛することを選ぶことによって、神の愛のご計画に同意し、愛を実践されたのです。

  ただ、愛を選ぶことは攻撃されやすくなることでもあります。傷つきやすく、弱くなることでもあります。脅さず罵らないのですから、愛を選ぶなら、イエスの攻撃されやすさが彼を十字架へと導いたように、苦難に導いていく可能性があります。憎しみでなく愛を、冷たさでなく愛情を、敵意でなく信頼を選ぶことはそういう所に置かれます。同時に、愛は重荷を共にすることですから疲れます。疲れない愛はありません。それは偽りです。

  5章の終わりに、「一人前の大人」という言葉が出てきます。段落のタイトルにあるように、一人前の大人のキリスト者のことです。大人のキリスト者が世に一人でも多く生まれるために、キリストは従順を学ばれたのです。激しい叫び声をあげ、涙を流し、死から救う力のある方に祈りと願いとをささげて求道者キリスト、苦行者キリストとして進まれたのです。

  聖書は、抽象的な理論を私たちに与えません。そうではなくて、一人の人間の生涯を私たちに示すのです。それは、全き人にして全き神の子です。神に完全に従い、同時に人間と完全に連帯される方です。ですからヘブライ書12章1、2節は述べています。「このようにおびただしい証人に囲まれている以上、全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではないか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」

  私たちもこの方を見つめながら歩みたいと思います。

        (完)

                                         2013年6月9日



                                         板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif