求道者キリスト


                       素晴らしい凝縮した作品でした(リヨンで)
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                                            求道者キリスト (上)
                                            ヘブライ5章7-10節


                              (序)
  今日は求道者キリストという、あまり聞き慣れない妙な題をつけて、果たしてよかったかと思う所もあります。ただここを何回読み返しても、求道者キリスト、修行者キリスト、苦行者キリストといった姿が残ります。

  聖書は一部分だけを肥大化して強調するとおかしくなります。エホバの証人など、キリスト教の異端と言われる人たちは大抵そういうことをします。多様なイエス像をあまり単純化すると、聖書が告げるイエスの豊かな像が損なわれてしまうでしょう。それで恐れず、今日の箇所が告げるキリストの求道者的な面を聞きたいと思います。

                              (1)
  7節に、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ…」とありました。

  「激しい叫び声をあげ、涙を流し、死から救う力のある方に…。」これは普通接するキリスト像とは随分異なります。イエスはどんな時にも恐れず、人間的弱さがないと思って来たのではないでしょうか。

  私たちの常識のイエス像は、苦悩する弱い方でなく、ヨハネ8章で、「私はどこから来て、どこへ行くのかを知っている」と語っておられますが、ご自分の天からの使命を自覚している方です。また、「明日のことを思い煩うな」と語り、「あなたがたにはこの世では悩みがある。しかし、私は既にこの世に勝っている」と語る、信頼できる勝利の主のイメージです。イエスは、しばしば「恐れるな」とも語られました。

  ですから、激しく叫び、涙を流し、死から救う力を切に求める姿があることに驚きを覚えるわけです。ここにあるのは救いを求めて求道するキリスト。弱さをさらけ出した人間キリストの叫びです。

  神の独り子であり、御子として父なる神と普段に交わりを持っていた方が、耐え難い苦悩を経験し、激しく叫び出すことがあるでしょうか。だが今日の聖書は、そうだと語ります。イエスに対する神の計画を進んで受け入れるために、苦しまなければならなかったのです。

  ただ、この事は少しもイエスの偉大さを取り去ることになりません。むしろ、この事実は彼を私たちにますます近づけます。イエスは神の子ですが、いつも私たちの身近におられる人の子でもあるということです。

  先日の祈祷会で学んだゲッセマネのイエスも、「ひどく恐れて、もだえ始め、…『私は死ぬほどに悲しい…』」と祈られたとありました。そこにも神性と共に人間性を持ったキリスト。人間キリストの素顔がありました。ヨハネ11章では、ラザロの墓の前で、激しく心を揺すぶられて泣かれたとあります。これらの叫びはやがて十字架上で、「わが神、わが神、何ゆえに私をお見捨てになったのですか」という所まで極まっていきました。十字架で叫びは極度に達します。

  夏季集会や求道者会で学んだ、「私たちの古い自分、罪の自分」は本当に過ぎ去ったのか。新しくされたのかという問いは、この極限に達したイエスの叫びと関係します。なぜなら、十字架で、「わが神、わが神、何ゆえに私をお見捨てになったのですか」という所まで極まったイエスの極限の叫びと無残な死によって、罪の私がイエスにおいて裁かれ、古い罪の私はイエスが代わって殺戮され砕かれることによって、取り除かれたからです。あの叫びを通して罪の私が取り除けられた。そして、賛美歌で歌われているような、「我ならぬ我の現われ来て」という、キリストにある新しい私が生まれたからです。

  ヨハネ福音書は、イエスは十字架上で、「成し遂げられた」と言って、頭を垂れて息を引き取られたと語っていますが、これによって、古い私が過ぎ去るということが十字架上で成就したのです。

                              (2)
  私はキリスト教に出会う前は、よく奈良や京都のお寺を訪ねました。普通の人のように、広隆寺弥勒菩薩法隆寺百済観音のエキゾチックな姿に憧れましたし、東大寺三月堂の日光、月光菩薩の静寂そのものの姿にも惹かれました。またどっしりした聖観音などにも惹かれ、多情多感な青年時代に仏像を巡りました。

  何を隠しましょう。解き難い悩みを抱えて、苦しんでいたからです。青年時代は誰しも多少は模索と求道の苦しみの中にあります。

  奈良の興福寺に阿修羅像というのがあります。最近は見直されていますが、当時は余り見に行く人はいませんでした。眉間にシワを寄せ、真剣な目つきで何かを求める若い女性の顔、唇を噛み真剣に求める顔など、3つの顔と6本の手を持つ若い女性の阿修羅です。天平時代の作であるこの像の切々たる苦悩し求道する姿に魅せられまして、できれば阿修羅と結婚したいと思うほど、何度も興福寺を訪ねました。異常でした。

  そのような時に、キリスト教に出会いました。

  今日のイエスは、「肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」とあり、随分異なりますが、阿修羅を思い出しました。

  ただ阿修羅は自分の救いのために苦しんでいます。怒ってもいます。私も怒っていたと思います。自分に怒って、カミソリで体を傷つける若者たちがいますが、私は傷つけはしませんでしたが、人生に怒っていました。だが、イエスは必死で救いを求め、それが私たちの「永遠の救いの源」になったと語っています。苦行者キリストは全人類の救済者キリストでもあったのです。イエスにおいても、十字架上の死というのは、見方によれば自分を傷つけることでもあります。ただ、その傷によって私たちは癒されるのです。

  今申し上げたいのは、苦行者キリストは救済者キリストでもあることを忘れ、あるいは苦行者というのを切り捨てて、神の御子の悟り切った姿だけを考えるのは、余りにも聖書を単純化することになるということです。

  新聞に精神科医で作家である加賀乙彦さんのことが数回載っていました。死刑囚との交流で、「宣告」という小説を書き、一躍有名になりました。ずいぶん前です。「宣告」の主人公は正田という実在の人で、加賀さんが長く交流し、加賀さんに多くの影響を与えた死刑囚です。拘置所で洗礼を受けましたが、最後は残念にも処刑されました。

  正田死刑囚について加賀さんは、3つの顔を持っていたと言うのです。1つは加賀さんに対して示した、言葉遣いが丁寧で熱心に神を求める真面目な人間である正田の顔。次は、600通ほど文通を交わした兵庫の英語教師の女性への手紙。ここにあるのは言葉もくだけ、ユーモラスで明るい青年の顔です。3つ目は、獄中日記に記された正田の顔。それは悩める顔。洗礼を受けながら、神は本当に存在するのかと疑う姿であったと言うのです。

  これは多重人格ということでなく、人は色んな側面を持って、色んな人に色んな自分を出して生きているということでしょう。加賀さんは、そういう人間の真の姿を書かねばならないと気づかされたと書いていました。そういう加賀乙彦さんもやがて洗礼を受けました。

  長く脱線しましたが、イエスも色んな顔を持っておられて、余り単純化すると虚像を作りかねません。救済者キリストは苦行者キリスト、求道者キリストでもあった。そういうことを踏まえたいと思います。

  イエスは安穏に過ごされたのではありません。全て神に任せ切り、神の御子という安全圏にいたのではありません。むしろ生きるか死ぬかの瀬戸際に立っておられました。そうでなければ、「我が神、我が神、何ゆえに私をお見捨てになったのですか」と叫ばれないでしょう。

        (つづく)

                                         2013年6月9日



                                         板橋大山教会 上垣 勝



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