好きだと思う心が残っている


                            リヨン博物館で
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                                          み言葉はわが道の光 (下)
                                          詩編119篇105-112節
                                          Ⅰテサロニケ5:16-19節


                              (4)
  外国のことですが、ある町に男の子がいました。その子は、生まれた時はよかったのですが、3才半頃からだんだんと体のマヒが起こったのです。最初は、足のマヒ、それから徐々に全身にマヒが広がり、やがて目もマヒして見えなくなったのです。そして6才で亡くなりました。

  両親はどんなに心配し、悲しんだことかと思いますが、両親でなく、お母さんしかいない母子家庭であったようです。ですからお母さんは本当に辛かった筈です。

  この子が亡くなる3か月前、お母さんはもう人生を悲観して、ただただ泣く日々でした。そうしたある日、子どものそばで母は為すすべがなくただ泣いていました。すると男の子は母親に、「泣かないで、お母さん。僕には、お母さんを好きだと思う心がまだ残っているんだから」と言ったというのです。(J.バニエ)

  歩くことも、手を動かすことも、視力も奪われ、何もかも奪われて、もう何も良いところが残っていない所まで来てしまった。そんな6才の子が、「僕には、お母さんを好きだと思う心がまだ残っているんだから」と言って、母を励ましたのです。先程申しましたように、まさに体が潰されても少年の心は潰されなかったのです。

  少年は幼いながらイエス様を信じていたようです。それでお母さんに、僕にまだ神様の光が届いているのを見てよ。光が届いていない所でなく、届いている所に目を留めてよということだったのだろう、と思います。彼は、今日の聖書の、「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」というふうに生きていたのでしょう。イエス様に信頼して生きていたのだと思います。

  神は一羽の雀さえ心にかけて下さる方です。神のお許しがなければ、その一羽も地に落ちることはありません。み言葉が、6才の少年の歩みをさやかに照らして下さったのです。神は、求める者の歩みを照らして下さらない筈がないのです。

  先ほどの第2テサロニケの信徒への手紙5章に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とありました。少年は何もかも奪われたに拘らず、「僕には、お母さんを好きだと思う心がまだ残っているんだから」と、神に感謝して喜んだのです。同じ5章に、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに、そして私たちにも、望んでおられること」とありますが、彼は神が望んでおられるように生きたのではないでしょうか。

  こんな中でも、「お母さんを好きだと思う心」を残されていることに気づく。それは、「“霊”の火」に灯されて初めて気づくことでしょう。聖霊が幼い子供にそのことを教えて下さったのです。ですから聖霊が教えてくださった、好きだと思う心を、どんな人間も彼から奪い取ることはできないでしょう。

  「霊の火」が灯される時、すなわち聖霊によって示される時には、子どもでも、大人を励ますことができるでしょう。幼くして次々大事なものを失った少年ですが、人を励ます霊の火が残されたのです。それは、世が求める経済的能力ではありませんが、幼いながら人格的に人を愛する愛の力です。これは人として一番大事なものです。

  イエスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と約束されました。少年も私たちも、イエスにある時に、暗闇の中にいても人を励ます「命の光を持つ」ことができるのです。私たちはイエスのこの光を反射して生きるものでありたいと思います。

     (完)


                                         2013年6月2日


                                         板橋大山教会 上垣 勝



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