体は潰れても、心は潰されない


                            リヨン博物館で
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                                          み言葉はわが道の光 (中)
                                          詩編119篇105-112節
                                          Ⅰテサロニケ5:16-19節


                              (3)
  さて、この信仰者は御言葉に希望を与えられて足取り軽く歩む人だと思いますが、彼はどんな人であるか、もう一歩深く入ってみますと107節はこう言います。「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり、命を得させてください。わたしの口が進んでささげる祈りを、主よ、どうか受け入れ、あなたの裁きを教えてください。」

  思いがけない言葉ではないでようか。健康そのもので、神を仰ぎ晴れ晴れと顔を輝かして歩んでいる人と思っていたのに、彼は重荷を持つ人であったのです。軽んじられ、小さく扱われ、極端に卑しめられ、屈辱を受けている人でした。

  そこには彼自身の責任もあったかも知れません。しかし、彼の責任が針小棒大に扱われて屈辱を与えられた。110節に、「罠を仕掛けています」とありますが、甚だしく卑しめること自体が一つの罠であったという場合もあるでしょう。いずれにせよ、虐げられ、人としての尊厳を奪われていたに違いありません。それが、「甚だしく卑しめられています」という言葉から伝わって来ます。

  彼は、過酷な状況にあって、「主よ、御言葉のとおり、命を得させてください。わたしの口が進んでささげる祈りを、主よ、どうか受け入れ、あなたの裁きを教えてください」と語るのです。

  「み言葉の通り、命を得させてください。」人間は誰もがこの命を求めています。幼児から大人まで、自分の本当の命に達することが人生最大の仕事でしょう。しかも、自分の命を得ようとすると、それを失い、一粒の麦のように地に落ちて死ねば多くの実を結ぶという所に、人生の悲哀と逆説があります。

  先日の新聞に、バブル時代に大儲けした人たちの言葉が書かれていました。中にどこに行っても熱狂的なファンに取り囲まれて、有頂天になっていた人が、バブルがはじけて目を覚ますと、結局多く人たちは業者に踊らされていただけであったということが分かって空しくなったというような記事でした。自分の命を得ようと頑張っていた。だが夢が覚めると、それは命を得るどころか命を失うことであったということです。

  それにも拘らず、この信仰者は本当の命へと、救いへと導いてくださいと願っているのです。

  ですから108節の、「わたしの口が進んでささげる祈りを」という言葉は、むろん口先だけでなく、心からする切なる祈りのことです。

  ところで、「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています」とはどういう意味でしょう。私は冷静です、自分を見失っていません、沈着ですということでしょうか。確かにそういう意味もありますが、これは自分は常に危険に備えていますという意味です。危険を冒す備えが出来ていますということです。

  言い換えれば、私は自分の命を手にしています。それを保つことも、捨てることも、捧げることにも心の備えが出来ていますということです。私は、私自身の人生の主人公であると言っていいでしょう。

  そう言った直後、続けて、「それでも、あなたの律法を決して忘れません」と言います。私は私の人生に対して責任を持ち、自分を責任主体として生きています。にもかかわらず、その私をあなたのみ言葉の下に置きますと語るのです。

  この言葉は、次の、「主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けても、わたしはあなたの命令からそれません」という言葉と対になっています。私は私自身の主体ですが、それでもあなたの律法、あなたの御言葉の下に私自身を置きます。また、主に逆らう者が私をへこまそう、砕こう、鼻をへし折ろうとしても、私はあなたの御言葉から、ご命令から離れませんと語るのです。

  そして、「あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。あなたの掟を行うことに心を傾け、わたしはとこしえに従って行きます」と歌うのです。

  あなたの定め、あなたのお言葉、掟は、永遠に私が受け継いだ財産です。私は永遠に御言葉に従って生きますと語るのです。まさに、御言葉が彼の道の光、歩みを照らす光であった。

  長く見て来ましたが、この信仰者は甚だしく卑しめられているにもかかわらず、何と清々しく高貴な魂を持っていることでしょう。近寄り難さを感じますが、同時にこういう人を知ったことを誇りに思います。人生において、いかに良い友と交わるか、それが人生を決めると言われますが、この信仰者を私たちの友として与えられていることを感謝に思います。

                              (3)
  さて、昨日も私のグループや色んなところで、家族や子どもや孫、その他の身近な人たちの中に、病や障碍を持ったり、苦しんでいる子どもなどがいることが偶然に話されました。

  障碍を持つということは悲しみです。4歳のA君がまだ明確な言葉が話せないで、色々自分で工夫して意思を伝えようとしているいじらしい姿に涙が出そうになります。色んな場面を見ていると、あどけない中で一生懸命生きています。

  普通、私たちは幼児期、少年期、青年期と驚く程の速さで色々なものを手に入れて来ました。だが、やがて必ず色々なものを失っていきます。視力も、歯も、脚力も、記憶力も減退していきます。やがて命も失うでしょう。

  しかし、J.バニエさんが言っていますが、障碍を持つ者の悲劇は、彼らが、色々の喪失を余りにも早く体験することです。まだ、その喪失の悲しみに立ち向かう十分な力さえ獲得していない時に、失ってしまうところにあります。生まれてすぐ、あるいは胎内で既に喪失を体験している所にあります。そういう喪失の辛さは、親でさえ本人のように分かりません。そういう意味では、誰にも本当は理解されず実に孤独です。そして中には、本人が喪失の悲しみも苦しみもその意味が上手く理解できない場合もあるわけで、その場合は本人が気づかない分、親として一層悲しいわけです。

  私は、A君が自分の障碍の悲しみと辛さがどこから来ているのか、その理由や意味を理解して、もしそれに立ち向かうことができるまで発達すれば、どんなに嬉しいかと思います。しかし障碍を持っていることの悲しみと辛ささえ理解できないとなるなら、本当に悲しいと思います。

  そんな場合、将来、「甚だしく卑しめられ」る場合も起こるでしょう。虐げられる場合もあるかもしれません。しかも虐げられていることが理解できないかも知れない。人としての尊厳を奪われ、屈辱を受けてもそれが理解できないなら本当に悲しく思います。それでも生きていく小道は必ずありますが。しかし小道であるということは、親にとっては辛いでしょう。

  イザヤ書53章に、主の僕(しもべ)の歌というのが出てきます。受難の僕とも言って、これはキリストを預言していると言われます。そこに、彼は「軽蔑され、人に捨てられ、見る影はなく」と書かれています。また、「その姿は損なわれ、人とは見えず」ともあります。

  苦難の僕は肉体が潰(つぶ)れていた。人とも見えないほど潰れていた。だが体はいかに潰れ、歪んでいても、その心は潰されていなかったのです。肉体が潰れ、心も潰れそうになっていても、神さまからいただいた魂まで潰されることはなかったのです。私は今回、そんなことをイザヤ書53章から考えさせられました。

     (つづく)


                                         2013年6月2日


                                         板橋大山教会 上垣 勝



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