心を引き裂くような謝罪が欲しい


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                                         今こそ神に立ち帰る時 (下)
                                         ヨエル1章1-20節


                              (3)
  ここにあるのはイナゴによる自然災害です。それをどう予防し、最小限に防ぐのか。それは確かに大切なことです。

  地震津波そして原発事故。未曾有の災害。それを今後いかに予防し、最小限に防ぐにはどうすればいいか。これも大切なことです。

  私たちも3節にあるように、「これをあなたたちの子孫に語り伝えよ。子孫はその子孫に、その子孫は、また後の世代に」していくべきでしょうし、日本でもそれをしています。

  だがヨエルが語るのは、私たちと少し方向が違います。彼は指導者の本当の悔い改めを求め、神への立ち帰りを求めます。彼は、災害の中で国の責任者たちへの神の声を聞いているのです。

  鄭周河(チョン・ ジュハ)という韓国人写真家がいます。韓国の大学で教える世界的写真家です。キリスト者でしょうか。その写真は、深い思想で裏付けられています。

  鄭さんは、2011年3月の大災害以来、6度来日して原発の被災地を撮り続けていますが、その写真展が、「奪われた野にも春は来るか」という題で、この春、先ず南相馬で開かれ、その後、丸木美術館や神楽坂でも開かれ、NHKでも放映されました。

  地震と大津波原発事故で、放射能が撒き散らされ、除染しても放射能に占領された大地は元に戻りません。家族や隣人を奪われ、農地を奪われ、牛や家畜や果樹園を奪われ、住み慣れた故郷を奪われた。そういうフクシマの人たちの悲しみを撮り続けて来られました。

  地震津波が起こらなければこういう事は起こらなかったでしょう。だが、鄭さんはこう言います。「海からこういう過ちが始まったと思ってはなりません。海の過ちでなく、人間の過ちです。根源は人間です。」ここに人間の罪を見ています。

  これは重い言葉です。その言葉を聞く人たちは、腹にストンと落ちるものがありました。原発が襲われ、放射能を撒き散らした根源は人間です。罪が放射能を撒き散らしたのです。罪の人間が自分を苦しめ、自然を、大地を、家畜や野の獣を、米や麦や野菜やぶどうや桃や栗や、福島で取れるあらゆる農産物、魚介類を汚染し、今もメルト・ダウンした原発の中は殆どそのままで、手のつけようがありません。それに毎日地下水が流入し、膨大な量に達し、今後も確実に増え続けます。

  ところが非常に人為的な仕方で、景気が回復すると浮かれてしまい、高級車が売れ出し、銀座や新橋界隈が賑わい出し、酔いしれる者たちがまた夜の巷で美女たちを侍らせ、美酒を酌み交わし、もっと経済回復、もっと経済回復と触れ回わり、軍需産業にも力を入れようよ、原発産業に力を入れようよと触れ回っています。

  勝ち組の主婦たちは、再び数万円するランチを食べてグルメを楽しんでいます。これまで長く辛抱して来たから、ここらで一発極上を張り込みましょうよ、と。バブル経済の再来です。だがこのバブルは極めて脆いバブルです。今後、証券取引の乱高下は必定でしょう。震災前と震災後で、どれだけ生き方が変わったかです。

  その中でヨエルの預言が響きます。

  今、必要なのは、エジプトの肉鍋を再び求めることでなく、そういう欲望との決別。それがこの自然災害で私たちに啓示されたことではなかったか。彼はこう問うわけです。

  ヨエル書は裁きが前面に出ています。どこに良き訪れがあるのか。あえて喜ばしい福音をどう聞けばいいのでしょう。お話する者は悩みますね。もっと耳障(ざわ)りのいい言葉を語りたいのです。だが、コヘレトの言葉は語ります。「神のみ業を見よ。神が曲げたものを、誰が直し得ようか。」神が曲げたものを、そのまま直さず見るとは、曲がったままに誤魔化さず見ることです。

  すなわち、神の言葉を曲げず、薄めず、歪曲せず受け取ることです。ですからヨエルの裁きを貫くとき、その言葉の向こう側に喜びの福音があるに違いありません。

  星野富弘さんのことはご説明しなくてもお分かりでしょう。体育の教師でしたが事故で首の頚椎を折り、9年間入院されましたが、絶望を通り抜けてやがて絵筆を口にくわえて花の絵とそれに添えて詩を書き始め、もう何冊も詩画集を出して来られました。何冊も外国語に翻訳されています。

  星野富弘さんが、昔、オダマキの絵を書いて、そこに、「命が一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。命より大切なものがあると知った日。生きているのが嬉しくなった」と書かれました。

  最近出版された本で、「命より大切なもの」という随筆を書いて、自分がこう書いてから、「命より大切なものとは何ですか?」という質問を何年も受けてきた。だが、大震災が起こって以来、この質問をする方が殆どいなくなったというのです。震災や津波で被災し、亡くなった沢山の人たちを見て、「やっぱり、命が一番大切だよ。命がなければ、どうしようもないではないか」と思うようになったからでしょうか。

  そんな中で星野さんは、こう綴っておられました。「津波が迫る中、水門を閉めるために津波の方に向かって走っていった人、人の波に逆らうようにして、『津波が来るぞ』と知らせに回っていた人。その人たちは皆、自分の命よりも大切なものに向かって行った人ではないか。」

  私は、軽薄だったと思います。水門を閉めるために走ったり、津波の方に走って「津波が来るぞ」と告げて回って死んだ人たちは、可哀想に不運だった。あるいは、あんな時に津波の方に走るなんて、まあバカな人だったという思いがチラッと胸を掠めなかったかです。自分なら、もうチョッと機転を利かすだろうとか。

  でも、星野さんは、彼らは馬鹿だったのではない。不運だったのでもない。自分の命より大切なものに向かって行った人たちなのである。それを読んで初めて、私は、本当にそうだと思って、自分は本当に軽薄な人間だなあと思いました。

  聖書に、「愛はいつまでも絶えることはない」という言葉があります。愛はいつまでも絶えることはないということも、命よりも大切なものがあるということでしょう。水門に走っていった人たちは、町の多くの人を救うために、人を愛する愛ゆえに、命より大切なものを大切に思う故に、無我夢中で走って行ったのではないでしょうか。

  イエス様は、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と語られました。これはまさに、体よりも、命よりも大切なものがある。それを超えるものがあるということでしょう。

  イエスは実際、そのように生きて、十字架に向かわれました。彼らも命より大切なものに向かって走って行った。

  今、必要なのは、ヨエルが言うように、断食と礼拝によって慢心を戒め、甚大な災害を与え苦しめた罪を主の前に告白し、懺悔し、謙って主に赦しを求めることです。そして、命より大切なもの、経済より大切なものがあることに気づいていくことです。

  経済を否定しません。だが、経済第一はどこか間違っている。原発を推進した人たち自らが粗布をまとい、素直に神の前に立ち帰らなければ、国の将来はないかも知れないと思います。

  2章12節、13節は、今日の私たちへの呼びかけです。「主は言われる。『今こそ、心から私に立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。』」

  ヨエルが語るお前たちとは、農民たちではありません。指導者たちです。彼らが衣でなく、心を引き裂かねばならない。形式的なみそぎとして衣を引き裂くのでなく、心を引き裂いて真に懺悔しなければならないというのです。これは従軍慰安婦に対する謝罪ついても言えます。

  「衣でなく、心を引き裂け。」日本では、何を意味しているでしょう。誰に求められているでしょう。それがなされなければ、「ああ、恐るべき日よ、主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る」ということになりかねません。

        (完)

                                         2013年5月26日



                                         板橋大山教会 上垣 勝



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