ペトロの挫折はこの時生きた


                            リヨン博物館で
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                                           恐れず語るペトロ
                                           使徒言行録2章14-42節


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  さて、ヨエル書を引用して語った後、彼はイエスのことを群衆の前に持ち出したのです。彼は内心、恐れたと思います。イエスの名を出せば、出し方によっては群衆は激怒するかも知れません。だが躊躇せず持ち出したのです。

  そして25節以下と31節そして34節以下で、詩編16篇と110篇のダビデの言葉を引用して、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方」であると証しし、「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」と語り、最後に、「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」、「わたしたちは皆、そのことの証人です」と、恐る恐る、だが聖霊に満たされてきっぱり証言したのです。

  彼は、ここにいる私たち全員は、イエスの復活の証人です。逃げも隠れも致しません。私たちがここに立って証言しているのは、神が聖霊を注いで下さったから、恐れずお話しているのです。

  証人とはギリシャ語でマルチュス、英語のmartyr、殉教者のことです。私たちは皆復活の証人とは、私たちは皆キリストの復活を、死に至るまで証する証人ですという意味です。

  すると、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」というのです。

  思いがけないことが起こりました。ペトロは、群衆も目で見た事実を通して論証し、またダビデを持ち出し、ヨエルの預言を持ち出し、イスラエルの歴史を持ち出して論証しました。その論証に圧倒されて、群衆の多くがいたく心を刺され、自分たちの犯した罪、メシア・イエスを十字架につけて殺すという大きな罪を犯したと気づいたのです。そして心、揺すぶられました。イエスこそ神の意志であった。この方こそ主、メシア、聖なる方であられた。神はこの方によってお語りになっていた。そのことに気づいて、心を刺され、「どうすればいいのですか」と使徒達に尋ねたのです。

  とはいえ、私は、群衆がどうして大いに心を打たれ、「私たちは、どうしたらいいのですか」と尋ねたのかと思います。そこが不思議です。どうして彼らは、イエスを十字架につけたことを正当化しなかったのか…。

  一つの理由は、ペトロはユダヤ人の間違いを指摘していますが、断罪していません。勘違いとは言っていませんが、ユダヤ人の罪を責めるより、神がイエスを復活させられたこと、メシアとされたこと、そこに焦点が行っているからだと思います。もし断罪の気持ちが少しでも優先していれば、彼らのこの素直さを引き出せなかったでしょう。また、彼らを断罪するとなれば、ペトロ自身が断罪されねばならない一人だったでしょう。

  だから、ユダヤ人を素直にさせたのは、ペトロ自身の挫折、罪の躓きが一役買って、彼らを悔い改めに導いたと言えるでしょう。ペトロの挫折がここで生かされたのです。

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  イエスはメシアだと示されて、彼らは、今や旧約の時代が終わり、神の新しい時代に入ったことを知ったのではないでしょうか。それで、一層強く悔い改めに導かれたのです。そして3千人が洗礼を受け、これが今日にまで続く教会の起源になったのです。

  主とは万物の支配者です。人間がその前に頭を垂れ、服従し、崇め、礼拝を捧げる方です。しかしイエスの時代、多くの神々が主として礼拝されていました。ローマ皇帝は、自分を主と崇めて礼拝させました。一方旧約聖書では唯一の神だけが主でした。ところが、キリスト教徒は今や、十字架につけられたイエスを主と告白し、礼拝したのです。

  「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」驚くべき発言です。十字架に付けられた者を主として告白する。この発言は聖霊の導きがなければ起こらなかったでしょう。当時の常識では、十字架の処刑者は最も軽蔑されました。ユダヤの伝統では神に呪われた者でした。だが、その十字架で処刑された唾棄すべきイエスを、「神は主、メシア、キリストとなさった」として、礼拝したのです。本当に凄いことです

  まさにペンテコステは、新しい時代を告げる事件でした。ここにキリスト教会の歴史の一歩が踏み出されたのです。

  ペトロは当時の支配者たちにとって何者でしょうか。何の値打ちもない田舎者です。だが主はこの小さき者を用いられたのです。小さなみすぼらしいヨエル書が告げる預言の新しい発見。そして十字架に付けられ、呪われた、軽蔑すべき存在が、主であるという告白。

  これらは皆、人間を超えた聖霊の働きでした。そして3千人の洗礼という教会の礎も人間の選択ではありません。神が必要だからその人たちに洗礼を授けられたのです。

  ここに洗礼共同体としての教会が成立したのです。彼らは悔い改め、キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただき、聖霊を授けられて教会共同体を形成していったのです。それが今日まで続き、私たちの教会が今日ここにあるのです。

        (完)

                                         2013年5月19日



                                         板橋大山教会 上垣 勝



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