神を指差すには何もいらない


                            リヨン博物館で
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                                           恐れず語るペトロ
                                           使徒言行録2章14-42節


                              (2)
  それにしても、ペトロは突然、ヨエルの預言をよくも思い出したと思います。というのは、ヨエル書というのは、旧約聖書39巻中で極めて短い、みすぼらしい書です。創世記、出エジプト記申命記エレミヤ書詩編といった堂々たる格調高く輝かしい書物たちの中にあって、内容的にも貧弱です。いわば聳え立つ名だたる秀峰の谷間で、息を潜め、忘れられて住む住人のようです。

  だが、このみすぼらしい住人が新約時代の偉大なことに用いられるために、その谷間に長年そっと住んでいた。そもそもヨエルという人は、ヨエル書以外どこにも出てこない無名の人物です。

  そのヨエル書3章、今日の言行録2章17節から21節に引用された聖句が、イエス・キリスト聖霊降臨の出来事につながるとは、誰も思いません。だがガリラヤの無学な漁師によって掘り起こされ、キリストの霊、神の霊、聖霊降臨の預言として、ヨエルの預言がここに成就したと語られたのです。

  しかも神の働きだと思いますが、元のヨエル書は、「主の日、大いなる恐るべき日」となっていますが、ペトロはこれを大胆に解釈して、「主の偉大な輝かしい日」と、肯定的に、輝かしい恵みの日として受け止めたのです。彼は裁きの中にも含まれる、恵みの真理契機を取り出してこう語ったのですが、ここにも聖霊の導きがあったと言えます。

  これは、神は小さく名も無い者さえ、世界の歴史の中でお用いになるということの一つの証でしょう。

  先週、福岡の方が上京され、ほぼ40年ぶりに牧師館で再会しました。今日はその方のことでなく、初対面でしたが、一緒に見えたその方の叔母さんと話していて思ったことです。

  その叔母さんは、70代半ばの方で、ご近所に住む88歳のAさんという方の介護をしておられます。4年前まで、Aさんのお家のお手伝いを10年間して来られましたが、Aさんのご主人が亡くなり、やがてAさんも84歳で長くご主人と開業してこられた病院を閉院され、女医さんでしたが、足が悪く認知症もかなり入って来たので、自分の介護をしてくれませんかと頼まれ、この4年間介護をして来られたということです。

  色々あったお話の中で、元女医さんは認知症が進んだとは言え、例えば、夕方になって帰ろうとすると、「今日は色々お仕事があって大変だったでしょう。お疲れ様でしたね」と言って送り出して下さる。あるいは何かを頼むにしても、「ごめんね。こんなことまでお願いして」と、無論お金を出してこの叔母さんを介護に雇っておられるわけですが、相手のことを心から思いやって感謝してくださる。こういうことがあるので、介護には腰の痛みや色々ありますが、明日も来ようという思いになりますと言っておられました。

  そして、この方は、「思いやりのある温かい言葉」を、いつも自然にスッとかけられて、どんなに励まされたでしょうかと何度も言われて、最後に、88歳のAさんは、今はなかなか教会に行けないがクリスチャンですとも言われました。

  人のために何かをする。Aさんは、これまでそうだったでしょう。だが、もう人に何もしてあげられない。ただ人から何かをされる状態である。だが、そういうことになっても、証の機会が与えられているのだと思いました。

  Aさんは殆ど動けません。だが行動しておられます。信仰を表現し、神に仕えておられると思います。神の僕として自分を表しておられると思います。いと小さい者になっても、「思いやりのある温かい言葉」や「感謝の言葉」によって、神様を指差すことができると思いました。神を指差すのに特別な力も賜物も健康もいらないのです。

  「愛されることが幸せだと、誰もが思っている。しかし実際のところ、愛することこそが幸せなんだ。」H・ヘッセの言葉です。受けるより与えることが幸いだと聖書にもあります。Aさんはお世話をされながら、愛しておられると思いました。

  旧約聖書の壮大な書物群の中に埋もれるようにしてあるいと小さいヨエル書が、ペンテコステに用いられたことによって、そんなことを教えてくれます。

  使徒言行録は、キリスト教の世界伝道のスタートを書いています。復活のイエスが弟子たちに約束されたのは、聖霊が降るまで都に留まっていなさい。だが聖霊が降ると、力を受け、地の果てまで復活の証人となるだろうということでした。

  すなわち、世界伝道は弟子たちが始めるのでなく、神の聖霊のみ業だということです。世界伝道は弟子たちの業でなく、「根本的には聖霊ご自身がなさることであり、使徒達はこの聖霊の業に参与するだけである。」注解書にそうありましたが、私もそうだと思います。そのために弟子たちもヨエルも私たちも皆、用いられるのです。

        (つづく)

                                         2013年5月19日



                                         板橋大山教会 上垣 勝



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