雄々しく強く生きなさい


                           南仏のコテージにて
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                                         雄々しく強く生きなさい (下)
                                         1コリント16章1節


                              (3)
  もう一度手前に戻りますが、彼は、もし、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と語ります。

  「キリストに望みをかけているだけ」とは、「その望みが現世限りのものに過ぎないとすれば」(柳生訳)という意味です。キリスト教信仰が浅く、気休めに過ぎない望み、気休めに過ぎない安っぽい信仰であるなら、惨めだというのです。

  信仰が単なる気休めである。その場合は、信仰は私たちを断固として支えるものにならない。全身を委ね得るものにならない。ましてや信仰のために、野獣と死に物狂いで戦うなどできない。殉教などできない。気休めのキリスト教は実に虚しく、頼りにならぬ、つまらぬ存在である。

  また、復活しなかった筈のキリストを神が復活させたと言っているのなら、それは神に対する、真理に対する敵対であり、それは人を騙すことでもあり、神から引き離されて真理に背くことである。

  コリント前書を読むと、真理に背くことを嫌うパウロのこのような気迫を感じます。ですから彼は、単にキリストに望みをかけているのではありません。死者の復活が彼の信仰のアキレス腱に、本当の生命線になっています。

  だから、危険を犯すことができたのです。むろんそれは福音のためであって、経済のためや、金儲けのためではありません。名誉の為でも、冒険が面白いからでもありません。純粋に、キリストの復活こそが、ギリシャ人にもユダヤ人にも、自由人にも奴隷にも、女性にも男性にも、すべての人に力強い希望を与えるからです。世の一切の権力、支配、圧力、圧政、悲惨からの自由を与え、解放を与えるからです。また、この世の支配的な価値観、時代時代の支配的な風潮からも私たちを自由にさせ、解放を与えるからです。

  彼は、「わたしは日々死んでいます」と語ります。彼はキリストの復活ゆえに、自分を日々捨てていくのです。ここにも、キリストが苦難の道を歩まれたことへの思いがあります。だから自分を固守しようとしないのです。反対に与えていくのです。妥協ではありません。日々、自分に死ぬ選択をして生きるのです。自分の偉さを証明したり、賢いと見られたり、個人的動機でなく、ただキリストを証するためです。

  ここで彼がしているのは、生きる原点、根拠を持つことです。もし死者の復活がないとすれば、何に尺度を置くのか。何を基準として生きるのか。何が最後的な拠り所になるのか。その時は、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになりかねないと言います。いや、人間は大いにそのきらいがあります。この世の一時の生を、できるだけ人に迷惑をかけないようにするが、できるだけしたい放題に、勝手放題に、縛られず、享楽と放縦、放埒(ほうらつ)とまではいかなくても、「どうせ明日は死ぬ身ではないか」。自分と自分の身の回りだけが可愛い、だから自分自身のため、自己中心に生きるというのがオチではないでしょうか。

  今の日本社会にある「自分さえよければ」という風潮。自分が先に競争から抜けて勝者になるという風潮は、根はそこにあるのではないでしょうか。「どうせ明日は死ぬ身」である、「神などいない」としているからでしょう。

  3月は、教会前の道路が賑わいます。税務署があるからです。この間の新聞にこんなことが書かれていました。日本人の90数%以上を占める低所得者、中所得者層は重税に拘らず真面目に誠実に税金を払っている。それが道路の賑わいを作っています。だが1%の富裕層は、税金逃れのために税金が極めて安い海外の国に貯蓄して、貯蓄隠しをしている。で、莫大な税金逃れをしている。いわゆる勝ち組はそういうことをしている。

  そこでは、強い者勝ち、早い者勝ち、弱肉強食の世界が現れるのは当然です。その傾向が年々露わになっているのではないでしょうか。即ち、自分さえよければという特に富裕層を毒している利己主義です。「自分さえよければ」という刹那主義です。

  私たちが拠り所を持たないなら、遂にこの考えに毒されてしまうというのは、今日、大いにあります。それほど、人間は罪の中にあるからです。

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  しかしパウロは、そうした中で、「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」と勧めるのです。

  世の潮流に流されてならない。主は復活された。神は厳然と存在される。神は実在される。だから神に目を覚まして生きよ。神は万物を見ておられる。キリストを着て生きなさい。他のものでなく、信仰に身を入れ、信仰に基づいてしっかり立ちなさいと呼びかけるのです。

  「目を覚ましていなさい」とは、キリストに向かって目を覚ましていることです。目を覚まし、悪に負けてはならない。自分にも負けるな。神は万事を益とされる。あなたのマイナスをもプラスにお変え下さる。ここにこそ、このお方にこそ、慰めが満ち溢れる。悲しみを喜びに、労苦を幸いに、神がお変え下さる。神に目覚め、神を仰ぎ見て、「信仰に基づいてしっかり立ちなさい。」

  苦難があなたを襲う時にも負けてはならない。貧(ひん)すれば貪(どん)するというが、貧(ひん)してもそれに処する道を神はお与えて下さる。

  パウロは、キリストに罪を贖われた人たちに、神の子とされた人たちに挫折してもらいたくないのです。だから愛をもって心から励ますのです。

  「雄々しく強く生きなさい。」キリストがおられる。万策尽きても望みを失うな。死人の復活。神が働いて力を授けて下さる。

  「雄々しく強く生きなさい。」雄々しくです。屈せず、晴れ晴れと主を見上げて強く生きよ。負けるな。率直であれ。キリストにあって淡白であれ。身を入れて働き、誰に対しても、自分を必要とする人に対して目覚め、奉仕する機会を掴むことに目覚め、「何事も愛をもって行いなさい。」

  「雄々しくあれ」とは、萎縮するなということでもあるでしょう。怖がるな。大胆であれ。粘り強くあれ。何事も愛をもって行ない、心込めて行い、人も物も大切に扱う。主は苦難を忍ばれた。しかも愛を失われなかった。主にこそ私たちの個人の人生とともに、社会を成り立たせ、成熟させる最も大切な拠り所がある。

  死者の復活。それがこうした力を生み出すのです。このアキレス腱が私たちの中に生きているとき、力強く生きること、雄々しく生きること、そして愛を失わず、愛にあって生きる力を授けるのです。

         (完)

                                          2013年5月12日


                                          板橋大山教会 上垣 勝



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