信仰のアキレス腱


                        ステパノの殉教。パリ中世美術館で。
                               ・



                                         雄々しく強く生きなさい (上)
                                         1コリント16章1節


                              (1)
  ローマに行くと、巨大なコロセウムという円形闘技場があるのを、たとえ私のように行ったことがない方でもご存知でしょう。闘技場と名づけられているように、剣闘士たちが見世物として戦わせられました。どちらかが、死ぬまでです。またキリスト者たちがライオンと戦わされ、多くの人が殉教しました。

  パウロの場合は、ローマでなく、エフェソで野獣と戦わされましたが、幸い生還したのです。なぜ野獣と戦わせられたか。信仰を曲げなかったからです。イエスを主と告白続けたからです。彼の信仰は生半可な信仰でなく、自分の存在を掛け、命を掛けてキリストを信じました。なぜ、そこまで信仰を掛けることができたのか。それが今日の前の章、第1コリント15章に書かれています。

  15章12節以下をご覧ください。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった筈です。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。
  なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかった筈のキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかった筈です。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
  そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

  飛ばして30節以下。「なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」

  死者の復活ほど、非常識極まりない考えはありません。だが、キリスト教キリスト教であるのは、死者の復活を信じる点にあるます。

  キリスト教が人間関係のモラルを説き、社会的正義や平和を説くのはいいが、死者の復活というとんでもないことを説くから信じられないという人がありますが、これこそがキリスト教の真髄であり、中心であり、生命線です。この一点がなくなればキリスト教の命がなくなるのです。

  ところが、今読みましたように、初代の教会の中においてすら、死者の復活はないという者たちがいたのです。キリストは復活したかも知れない。だが一般の信者が復活するとは信じられないと主張したのです。当然でしょう。常識からすれば、死者の復活など決してないし、余りにも理性に反することだからです。

  しかしパウロは、キリストの復活と死者の復活は固く結びついている、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった。キリストが復活しなければ、死者も復活しない」と言うのです。だが、死者が復活しなければ、私たちが宣教していることも、伝道も、信仰も一切は無駄である。今も罪の中にいることになる。私たちの信仰生活は全く空しいと断言します。

  その場合には、そもそも「復活しなかった筈のキリストを、神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになる」と言います。それは事実の否定である。ペテンである。もしそうなら、キリストを信じて死んだ人は、「滅んでしまった」ことになり、「私たちはこの世で最も惨めな、憐れな存在となる」と語るのです。

  しかし、パウロは語ります。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

                              (2)
  パウロは何を考えているかというと、死後に、死んだ人間が引き続き何かを行うことができるというのはあり得ない。そんなことを考えるのは、頭がどうかなった証拠だ。死んだ後、死後に何かをすることはあり得ないわけです。彼は復活ということで、死者自身が動いて何かできると考えていません。

  どういう事かというと、復活は人間的行為ではない。神様の恩寵だと。神の一方的な恵みの業だと考えているのです。十字架につけられ、墓に下ったキリストの、死者からの復活も神の業である。正確に言うなら、イエスも甦ったのでなく、甦らせられたのである。私たちの復活も同様に、神の業である。もしこれを人間の行為だという者がいれば、それは気が狂っているだろう。

  彼が言いたいのは、死者の復活は、信仰の奥義だということです。信仰の隠された奥義としての神の秘義です。マリアによる、処女降誕と同じです。死者の甦りというのは、神が、神だけが働いてくださって起こる神の業である。人間の業ではない。これは、信仰をもってしか窺い知れない神の神秘的奥義であると見ているのです。

  パウロはダマスコ途上で、復活のキリスト、その啓示と出会いました。その際、自分はキリストを迫害した男であり、使徒の中の一番小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちもない存在なのに、いや、罪人のかしらなのに出会って下さったと考えました。だから彼は、どんなに危険を犯しても、野獣と戦わせられることになっても、従って行こう。私はあなたから離れません、ついていきます。あなたが苦難の道を歩まれたのに、私が楽な道を、安易な道を歩くことはできませんと、自分の全存在を掛けて信じたのです。

  パウロが15章全体で語らんとするのは、キリストの復活そして死者の復活は、キリスト教信仰のアキレス腱だということです。このアキレス腱を持つゆえに、信仰生活に生きた力、バネが生まれるのです。高く飛ぶことも、低く屈(かが)み、へりくだることも、雄々しく強く生きることも、侮辱されては祝福し、罵(ののし)られても罵り返さず、赦せない人を赦すそうとすることができるのです。それは十字架にかかって、自らその身に私の罪を担って下さったからです。パウロが野獣と戦うことができたのは、たとえ死んでも甦るという復活の信仰、このようなアキレス腱となる信仰を持っていたからです。

         (つづく)

                                          2013年5月12日


                                          板橋大山教会 上垣 勝



  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif