訂正できない過(あやま)ち


                        水芭蕉の咲く箱根の湿性花園で
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                                           天は神の栄光を物語る (下)
                                           詩編19篇1-15節


                              (4)
  この信仰者は先ず大空と太陽に思いを馳せました。秩序正しく巡る宇宙と星座。そして次に、人間を取り巻く整然とした主の律法、主の御心に思いを馳せました。そして最後に、自分と神の関係、神のみ心に対する自分の応答に移っていきます。それが12節以下です。

  「あなたの僕はそれらのことを熟慮し、それらを守って大きな報いを受けます。知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し、支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ、わたしは完全になるでしょう。どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」

  この信仰者は今や、神の恵みに対して自分はどう生きるかを語るのです。罪と弱さを持つ人間として神の前に出るのです。人生は、最後は自分が神の前でどう生きるかにかかっています。人は変えられません。だが、自分はどう生きるかを選択できます。

  神の折り目正しい正しさの前で、自分はどうなのかを問うのです。自分も神の恵みに応じた生き方をさせてくださいと願うのです。

  「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。そうすれば完全になるでしょう。」過去に犯した自分の償い難い罪。今では深く反省する。だが、反省しても訂正できない過ち。そこから私を救い出し、私をどうか清めてください。私が陥る驕りによっても、私がすっかり支配されてしまわないように守ってくださいと、切に求めるのです。

  彼は求道的な真実の人です。永遠の求道者といってもいいでしょう。「どうか、わたしの口の言葉が御旨(みむね)にかない、心の思いが御前に置かれますように。」彼は、完全を目指す真理の探究者と言っても言い過ぎではないでしょう。まことの神によって正され、神に練られ、研かれ、切磋琢磨されて、完全になりたいと願っています。

  そして、「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」と、神に全幅の信頼を置くのです。

  実に高潔な人物です。謹厳実直です。格調高い人生を彼は歩んだ筈です。主に従って真実に歩こうとする、一筋の心に心打たれます。

                              (5)
  では彼は、完全になれたでしょうか。過ちを犯さなくなったでしょうか。驕りがなくなったでしょうか。唇を制する者になれたでしょうか。過去の罪はどうなるのでしょう。

  彼が最後に、「私の贖い主よ」と語って、罪を贖って下さる神に呼びかけているのは、これほど求道的であってもなお罪をなくせず、罪から逃れられないことを思わざるを得なかったからではないでしょうか。

  主イエスは、その贖われ難い罪の解決のために、十字架について下さったのです。罪の全面的解決は新約に至らなければ与えられません。この信仰者は高潔です。格調高くもあります。だが罪の根本的な解決なしに終わったでしょう。だからこそ、「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」と、主に解決を求めたのです。

  即ち、彼は救い主が来て、救ってくれることを切に待ち望んでいたのです。

  私が初めて遣わされたのは、福岡県の地方の町でした。人口4万人ほどの、大正2年から伝道が始まった、今年ちょうど100周年を迎える教会です。そこに来ていたご夫婦を、この詩篇を読んでなぜか思い出しました。多分お二人共、この信仰者に似て、謹厳実直な信仰者であられたからでしょう。

  ご主人は町の出納長をして、定年後は自動車学校に勤めておられました。奥さんは助産婦をして、1千人以上の赤ちゃんを取り上げた方でした。お二人共、皆から信頼されていました。今、生きていれば120歳ほどになられます。

  町は今言ったように4万程ですが、ご夫婦が住むのは戸数僅か40戸程の小さな村で、そこから毎週欠かさず礼拝に来られました。因習の強い田舎の村です。だが、こういう人たちが教会の屋台骨となり、柱となって支えておられました。別に面白い方ではありません。ただ謹厳実直が取り柄の方です。

  御主人の口癖は、イエス様に罪を贖って頂かなければ私たちは滅びるだけですという言葉でした。「罪を贖って頂かなければ」とは具体的にどういうことかついに聞きそびれましたが、そんな信仰がその身を包んでいました。

  6年間その教会に仕え、その町を去って東京の信濃町教会に赴任する朝、朝早く、80歳近くのご夫妻も村から出てきて見送って下さいました。

  私は、「天は神の栄光を物語り」に始まるこの詩篇の素晴らしさに心打たれます。私の好きな詩編の一つです。「主の律法は完全」という言葉にも、律法主義者の律法でなく、神がお与えくださった、本来の律法が持つ純金にもまさる素晴らしい内容を思います。

  だが、いかにその内容が尊くても、律法を行うことによっては人は義とされないのです。律法によって義とされようとすればするほど、自分の罪の姿が明らかになります。この信仰者は自分のその矛盾に気づいて、真剣に、「私の贖い主よ」と、罪を贖いとって下さる神を切に求めたのです。

  彼の心に平和が与えられるには、約1千年、イエス・キリストが来られる日を待たねばなりませんでした。

  しかし、私たちはすでにキリストが来られたことを知っています。この信仰者は闇夜に手探りで探しながら、切に待ちましたが、私たちは明るい日差しの中で、誰の目にも触れる仕方でキリストの十字架が示されました。ですから、この信仰者よりも何倍も幸福な所に置かれています。

  イエス・キリストが私の罪を贖って下さったことを、ただ信じればいいのです。信じる者は幸いなり、信じるものは救われん、です。

        (完)

                                          2013年5月5日


                                          板橋大山教会 上垣 勝



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