年収1億円以上の人がいていいの?


                      名品の数々がパリの中世美術館にありました。
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                                          多く任された者の責任 (下)
                                          ルカ12章41-48節
  

                              (4)
  イエスは、「もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」と言われました。

  私たちは「主が戻ってこられる」のを待つのです。まだ帰らないと思って、気を緩めちゃあならないのです。主が戻ってくるのはいつか、人間はその時期の見当を付けることはできません。

  そうではなく、たとえ千年続いても、明日戻って来られるように待つのです。一人になっても主を待つのです。隠れキリシタンのように主を待つのです。ノアが、誰から笑われても山の上に方舟(はこぶね)を作ったように、主を待つのです。日曜日に礼拝に集うのは、ノアのように方舟を作る行為ではないでしょうか。愚かと言われ、時代錯誤と言われようと主を待つのです。そこに、主を重んじて純粋に待つ待ち方が現れます。

  世界で起こっている多くの様々な事柄は、「主人の帰りが遅れる」と考えることから始まると言えるかも知れません。あるいは、もう主人は帰らないと考えている。更には、この世には人間の他に主人などいないと考えている。世界の主人公は人間であると考え、権力を持つ者こそ主人公だと考え、人生はお金だ、力だと考える人たちです。

  しかし、なぜかそう考える時には、そこに必ず傲慢が現われます。そして傲慢が現われると、必ず自分の傲慢に酔っ払います。酔っ払うと、酔っ払っているのが分からなくなります。酔っぱらいは、大体、「俺は酔っ払ってはいねえ」と言うのです。酒場ではそんな声がいつも聞こえます。これが45節で、「酔うようなことになるならば」と比喩的に言われていることです。

  個人的な感想ですが、年収1億円とか10億円という人があっていいのかと思います。正直言えば、5千万円でも多すぎますよ。ここにそんな方おられますか。いない?いないでしょう。ああ、よかった。そういうスポーツ選手、芸能人、政治家、経営者を批判する社会記事を読んだことがありません。本当にこういうことでいいのかと真剣に思います。

  それは既に、「下男や女中を殴ったり」、蹴ったりということでなくても、踏んづけることにならないかということです。むろん中にはそうでない人もあるでしょうが、一体人間にこれほどの格差があっていいのかということです。

  もともとは全て主のものです。神のものです。それを、貧しい人たちが多くいる傍らで、それ程も独占的に利益を得、べらぼうに独り占めし、支配していいのかと思います。

  私たち人間は、主人に「忠実で賢い管理人」であるべきで、それ以上になってはいけない。それ以上になって、鼻から息をしているだけの動物が、主人のように振舞うことに問題があります。

  ローマ書8章に、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」とあります。現代社会に、主のもとで生きる神の子たちの登場、真の人の登場が求められている。被造物はそのような人間の登場を、呻きながら、苦しみながら切に待っていると言っていいでしょう。

  人間が神のもとにある。このことが忘れられるときに、世がおかしくなり、世が乱れ、収拾がつかなくなります。世の大本に穴があくとき、空気が漏れ出し、この世界はしぼんで、明るい希望の力が入らなくなります。出血多量で世が致死的状態になってしまうと言えるのでないでしょうか。

  今日ほど、少数の者に巨大な富をかき集められる時代はありません。今日ほど上に立つ者の責任、多く任された者の責任の重さはないと言えるでしょう。


       (完)

                                          2013年4月28日



                                          板橋大山教会 上垣 勝



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