ヒトラーを愛さなかった私の罪


                   このタペストリーも優れたものです。パリの中世美術館で
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                                          多く任された者の責任 (中)
                                          ルカ12章41-48節
  

                              (3)
  そこで45節で、イエスは、「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」と語られたのです。

  「厳しく罰し」とありますが、これは元々はもっと生々しい意味です。「二つに寸断する」という言葉です。「一刀両断にする」という言葉が使われています。日本語にした時どうしてこんなに緩めた訳になるのか、私は分かりません。むろんこれは譬えですから、実際にそうするというのでないが、そういう厳しさを緩めてはならないでしょう。

  ペトロは、この厳しいイエスの言葉に恐れ慄(おのの)いたのではないでしょうか。イエスに選ばれた者は、どれほど真剣で、重責を持つ者であるかを改めて思ったでしょう。

  「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」と、イエスは言われました。人間というものはとんでもない側面を持っていますね。そんな人でないと思っていたのに、恐ろしい面が隠れていることがあります。無論反対の場合もあります。また、誰も見ていない所では、何をするか分からない面があります。面従腹背というのでしょうか。いや、もっと深刻な罪の問題です。

  教室とか家庭とか、その他、人に見えない密室でしばしば暴力が行われるのは、人間に潜む罪の深さがあるからです。物理的暴力でなくても、言葉の暴力が発せられる場合があちこちで起こっています。

  人類の歴史は罪の歴史です。上に立つ者がいつの間にか権力を振り回し、権力にしがみつきやすい。日本でも外国でも同じです。

  私が大変考えさせられたのは、この譬えで、「その僕が、主人の帰りが遅れると思い」と言われたところです。「その僕」とは、「主人が全財産を管理させる、忠実で賢い管理人」のことです。だが、そんな模範的な忠実な人間でも、「主人の帰りが遅れると思う」や、一変してとんでもない横暴な僕に変身することがあるというわけです。これは人間への悲観主義というものでなく、人間の現実を知り抜いた方のお言葉です。

  「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」とは、罪には軽重があるということです。知って犯した罪と知らずに犯した罪。成人と未成年にも違いがあります。親族に犯した罪と他人に犯した罪にも違いがあります。知識を持つ者の責任、上に立つ者の責任。

  更に、「主人の思いを知りながら」という言葉に色々なことを考えさせられます。マルチン・ニーメラーという人はナチスに抵抗した指導者の一人でした。1960年頃に来日して各地で講演されました。

  彼はナチス・ドイツが降伏した時、夢を見たそうです。そして夢に慄(おのの)きました。1945年、ナチスが降伏した時、ニーメラーは何度もこんな夢を見たそうです。

  自分は、雲の間から眩(まばゆ)いばかりの明るい光が差して来るのを見ていた。自分はなぜか身動きできなかった。夢の中です。光と共に一つの声が響いて来た。それは、私に対してではなく、私の背後にいる、誰か別人に向けられていた。しかし振り返れなかったので、それが誰かを見ることができませんでした。

  その声は背後の人にこう尋ねていた。「お前は、何か申し開きをすることがあるのか。」その質問に対して答える声を聞いた時、私はすっかり仰天した。

  ニーメラーの後ろの人はこう言ったのです。「はい、私には、かって何びとも、福音を語ってくれませんでした。」その声は、まさしくアドルフ・ヒトラーのものだったからです。ニーメラーはかつて潜水艦の艦長をしていて、ヒトラーとやり合うことがあったからです。

  私は驚きのあまり目を覚ましたが、雲間から次の声が、私にこう尋ねるのをはっきり予感できた。「お前は、なぜ、この男に福音を語らなかったのか。お前は、かつてたっぷりとこの男と一緒にいて、議論し、罵倒し合ったではないか。それなのに、お前は、この男に福音を告げはしなかったのだ」と。

  ニーメラーは、この夢を何度も見たが、それを見ながら、自分はヒトラーに抵抗したが、キリストの福音をヒトラーにしっかり語らなかったということにおいて、自分もまた、ナチス・ドイツの成立に対して重い責任があると自覚せざるをえなかったというのです。

  ヒトラーに罪はあろう。しかし、自分こそ、福音を知りながら彼に語らなかったことにおいて、鞭打たれるべき存在であると思ったのです。「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む」とある通りです

  この夢も一つの契機になって、戦後まもなく、シュトゥットガルト罪責告白という、戦争責任告白をドイツの教会が出すことになったのです。

  その罪責告白はこう述べています。「我々はナチの権力支配の中にその恐るべき姿を現した霊に抗して、長い年月を通じて戦って来た。しかしながら我々は自らを告発する。我々がもっと大胆に告白しなかったことを、もっと忠実に祈らなかったことを、もっと喜んで信じなかったことを、そしてもっと燃えるような思いをもって愛さなかったことを」

  ヒトラーをも愛さねばならなかったということにおいて罪責告白したのです。もっと愛し、もっと真剣に語っていれば、彼はあのような罪を犯すことがなかったのでないかと罪責を言い表したのです。


       (つづく)

                                          2013年4月28日



                                          板橋大山教会 上垣 勝



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