永遠の副牧師


                           パリの中世美術館で
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                                          多く任された者の責任 (上)
                                          ルカ12章41-48節
  

                              (序)
  今日の箇所は前回の続きです。先週お出にならなかった方にはちょっと分かりにくいかも知れませんが、できるだけ説明を加えていきたいと思います。

                              (1)
  先週のところで、イエスが、「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。…人の子は思いがけない時に来るからである」と語られました。それを受けて、ペトロが今日のところで、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と聞いたのです。

  イエス様のお話は、私たち12弟子にお話になったのですか、それとも一般の人向きに語られたものですか、と聞いたわけです。なぜそんな区別を思ったか。それは、ペトロたちには、自分たちは特別にイエスに選ばれたという意識が強かったからでしょう。自意識です。だから他の人達ではなく、イエスが再び帰って来ることは君たちには福音なのだと語って欲しかったからでしょう。

  ところが先週触れましたよに、イエスは、私が再び帰って来ることは、すべての人にとって良い知らせだと福音だと語られたのです。裁きでなく喜びの知らせであり、大いなる希望の時であると語られたのです。

  そこで、ペトロの質問をきっかけに、特に神に選ばれ、神から任せられた者たちの責任の重さがこの箇所で語られることになります。ですから、今日の箇所は言外に、あなた方は思い上がってはならない、他の人達を見下げるな。仕える人になれというイエスの戒めがあると考えていいでしょう。

  もし選びが特別な一部の人に限定されるとなると、特別なエリート意識が生まれがちです。だがそうではなくて、弟子の選びは、人々を祝福するためであって、見下げるためではありません。

  これはアブラハムに遡る考えです。彼は全世界の人々の祝福の基となるために神に選ばれました。全ての人に神の祝福を届ける。その源となり、基となる。そのために選ばれた。選びは自分のためだけでなく、他の人に祝福を届けるためです。使命と一体です。人々に対する福音の使命を忘れた選びは自己満足になります。ペトロはすんでのところで取り違えかかったのです。

                              (2)
  そこで、イエスはペトロに、「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」と、管理人の譬えを語られました。まるで避難所の人たちへの給食サービスです。

  「忠実で賢い管理人」とあるのは、主人が信頼し、信任できる家事の管理人です。普通は奴隷が管理人になり、時にはエジプトのヨセフのように全権さえ委任されました。だが何をしてもいいのでなく主人の命令を絶対として忠実に守る人です。その典型は、43、44節で、「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」とイエスが言われるような僕です。

  ところが、「忠実で賢い管理人」とは言え、人間ですから、他の者を悪く扱ったり、うまくいかないと権力を振り回したいという誘惑が起こります。特に劣等感などがあると過剰防衛に出たり、権力を振り回したり、威張ったりすることで自分を守ろうとしたり、相手を従えさせようとしがちです。ですから、主人から命じられた原点にいつも立ち返って、管理人は気を緩めてはならないのです。

  牧師は一応教会の管理者でしょう。しかし自分こそ教会の管理者だと気負っていると大間違いをします。教会の群れを牧しておられる牧者は、キリストのみです。牧師というのは、キリストの下にある、キリストに仕える永遠の副牧師です。牧師こそ真っ先にキリストの下にあって、大牧師であるイエスに従わなければならない。それがあって牧師は安心して牧師であることができます。このお方が羊を導いて下さるのです。

  小さいお子さんを持つ方は色々苦労しながら育児をし、教育をして育てておられるでしょう。その努力は尊いと思います。しかし子育てで大事なのは、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さるのか神である」という御言葉です。これがないと親は子供に過干渉になっていきます。しかし過干渉では子供の自主性は育ちません。放任で放ったらかしというのは、植えたり、水を注いだり、手入れをしないということでしょうが、それもまたうまく育たないのです。丸投げでなく、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」というあり方と、「育てて下さるのは神である」ことの悟りが良い子育てにつながるのです。

  それは牧師にとっても似ていて努力はしますが、羊は大牧者がお育てくださるから安心していい。これは福音です。大牧者の下にあるから、自分からも職務からも自由になれます。そうでなければ、拘え込みすぎて孤独になり、責任の重圧に耐えられなくなることがあるでしょう。これは他の仕事だって似たり寄ったりではないでしょうか。

       (つづく)

                                          2013年4月28日



                                          板橋大山教会 上垣 勝



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