目を覚ませ、日本


             パリのクリューニー中世博物館で。盆に乗せられたバプテスマのヨハネの首。
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                                            目を覚ませ、日本 (下)
                                            ルカ12章35-40節


                              (3)
  こうして40節は、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と、キリストの再臨を語るのです。

  イエスがここで語られるのは、僕(しもべ)の待つ喜びです。怖がって待つのではありません。終末の裁きではありません。裁きであるとしても、この世では正しく裁かれなかった無念な裁きを、キリストが正しくお裁き下さる。そのキリストのまことの裁きの喜びです。義務として待つのでもない。喜びが基調です。キリストが来られるのです。この方にお会いするために、腰に帯を締め、ともし火を灯して、目覚めていなさい。

  イエスはマタイ福音書で、10人の乙女の譬えを語られました。5人の賢い乙女たちは、新郎の到着を、喜びをもって、油を絶やさず待っていました。油を絶たないということは、日本語でも「油断」せずということです。

  聖書は全巻にわたって、やがて来られるキリストを待つことが言われています。待つのは、主キリストを思い巡らしつつ待つのです。キリストの言葉と業を黙想しつつ待つのです。

  地震を思い巡らしたり、国債の暴落や高騰を思い巡らすのではない。核に備えて思い巡らすのでもありません。新聞は不安を増幅する記事が次から次へと書かれます。これでは世に不安神経症が増えるのは当然です。私が以前にいた教会で、毎日の新聞を見るのが怖いという方がいました。実際彼女はそういうことで病院にかかっておられました。

  私たちは、死を超えて、主こそ世界の王であられることを。このお方がやがて来られることを思い巡らし、火を灯して待っていなさいと言われているのです。

  これは現実離れした生き方とは思いません。むしろキリストを思い巡らすことは、最も現実的なことだと思います。キリスト教は、キリストを思い巡らす時には不安が取り去られ、しっかりと現実的に生きることができたのです。しかしキリストを忘れた時には、世に流され、世に埋没し、世に負け、世の現実に挑戦することもしなくなったのです。

  私は今、マルチン・ルーサー・キング牧師のことを考えながら話しています。彼は、「私には夢がある」という有名なスピーチを語って人々を励ましました。黒人の公民権運動のリーダーとして非暴力で行う抵抗運動をしました。例えば1963年のアラバマ州バーミングハムで、座り込みデモがなされましたが、その時、警察官たちが丸腰の黒人青年に警察犬をけしかけて襲わせたり、警棒で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなど警官による酷い事件が起こりました。だがその日、キング牧師たちは座り込みに参加する人たちに、誓約書にサインすることを求めていたのです。

  10項目からなる誓約書です。これを参加者にサインしてもらっていた。少し長いですがご紹介します。

1)毎日、イエスの教えと生涯を黙想すること。――まるで修道院に参加するみたいな誓約でしょう。
2)バーミングハムでの非暴力運動は、勝利ではなく、正義と和解を求めるものであるということを常に心に銘記すること。
3)神は愛であるから、愛の精神をもって歩き、かつ語ること。――カーネーションを機動隊に差し出したり。
4)全ての人間が自由になるために、神によって自分が用いられるように日々、祈ること。
5)全ての人が自由になるために、個人的な欲望を犠牲にすること。――デモは禁欲的な行動ですよ。
6)味方と敵の双方に対して、礼節を守ること。――相撲や柔道をするのではありませんよ。デモです。柔道こそセクハラをやめて監督は礼節を誓うべきでしょう。
7)他者と世界に対し、変わらぬ奉仕をすること。
8)拳(こぶし)・舌・思いによる暴力を振るわないこと。――学校の一部の教師に誓ってもらいたいことです。家庭でも、でしょ。
9)心身両面の健康に留意すること。
10)デモ行進に際しては、運動体および指揮者の指示に従うこと。

  デモ行進をする人たちに、「健康に留意すること」というのは面白いです。「イエスの教えと生涯を黙想する」誓約を求める。何たる新しいデモの在り方でしょう。「愛の精神をもって歩き、語ること」を求め、「神によって自分が用いられるように日々、祈ること」を求める。こんなデモを、日本人に考えることができるでしょうか。これは教会で語られる言葉です。これほど信仰的な生き方の運動はありません。

  イエスが言われる、腰に帯を締め、ともし火を灯し、やがて来られるキリストを思い巡らして待つとは、日常生活においてこれ以上のことをすることでも、これ以下をすることでもありません。これは、教会に集う私たちにイエスが求めておられることです。戒めや掟や規則ではありません。これは、主を待つ者たち、キリストに従って行こうとする僕たちの喜びであるからです。

  日本の社会には、こういう生き方は見られません。経済だけでは行き詰ってしまうでしょう。憲法改正をし、軍事国家にしようなどという動きがありますが、日本はもっと本質的な事柄に目を覚ますべきです。もっと大きな、世界を包む夢を持つべきです。

  先月の朝日歌壇に、「巨大なる冬の鶏舎に黙々と万羽の鶏(とり)が無精卵産む」とありました。恐ろしい人間世界に巻き込まれて生きている動物たちの姿。考えれば鳥肌が立つような世界です。これは、この国で、無精卵を生まさせられているかのように黙々と経済のためにだけ働く人々を暗示しているのでしょうか。私たち人間は、世界をこれ以上、虚無的なもので覆うべきではありません。虚無でなく、喜びを、福音をもたらす生き方をしなければならないでしょう。

  主は世界の王です。とこしえの王です。世界を覆う主権を持っておられます。そのような大きな視点から人間個々人に関わり、人類に関わって行かなければ、狭い民族主義、世知辛い世界を作ることで終始してしまうことでしょう。それではこの地球に希望を与えて生きたということになるでしょうか。それは、地球から何かを奪うために生きたということに過ぎなくなりはすまいかということです。

  「全ての人間が自由になるために、神によって用いられるように日々、祈ること。」これは、日本のキリスト者すべてが、日々の祈りでしなければならない事柄ではないでしょうか。

           (完)

                                          2013年4月21日


                                          板橋大山教会 上垣 勝



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