社長冥利に尽きる


             パリのクリューニー中世博物館で。マリアとヨハネの表情が真に迫ります。
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                                            目を覚ませ、日本 (上)
                                            ルカ12章35-40節


                              (1)
  私たちの信仰は、キリストが再び来られる再臨を待つ信仰です。クリスチャンというのはとんでもない日を待っています。この世的には愚かとしか言えません。

  今日の箇所は、人の子キリストが思いがけない時に来られる。あなた方は用意していなさい。キリストの時に備えて日々を生きよ。今日の聖書の焦点はそこにあります。ただこれは、キリストにある個々人や教会のあり方だけでなく、更には日本のあり方も考えさせられる箇所です。

  先ず、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」と、主人の帰りを待つ僕たちを譬えに、再臨の主の待ち方が語られています。

  「帯を締める」のは、いつでも行動に移せるためです。腹を固めて待機する姿勢です。「すぐに開けようと」とありますが、忠実な僕は、主人のためいつでも役立てるようにと備えます。彼は主人のことを気遣って、僕なりに心は主人と一体ですから、家にいながら、もう婚宴が終わった頃だろうか、皆と別れて向こうの家を出た頃だろうか、自宅への分かれ道に着いた頃だろうか、もう玄関の敷石を踏む頃だろうか。そんなことを考えながら待っているでしょう。

  妻は、今は時々しか仕事に行きませんが、行くと8時頃に戻ります。そんな日は、私は妻の帰りを待って玄関を気にしています。ガラス戸の向こうに影が映ると、彼女が鍵を取り出して開ける前に、内側から開けてあげます。仕事帰りに買い物までして重い買い物をリュックに背負っているので、その上両手にも持っていることもあるので、リュックを肩から先ず取ってあげるんです。肩に食い込む荷物がなくなると誰しも身体がホッと一息つけます。あのホッと楽になった顔を見るのが楽しみの一つです。ただこっちの目的は、腹ペコだからかも知れません。

  そんなことをしながら、自分はキリストが再び来られるのを、果たしてこういう思いで待っているだろうか。今の時を心引き締め、明かりを灯して生きているかと、自分の胸に問っています。どうも信仰が鈍くなっているのでないか、ゆるくなり過ぎていないかと反省をしています。

                              (2)
  「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とありました。

  主人が帰った時に、先に寝てしまった僕でなく、眠らず目を覚まして待っている僕たちです。元の言葉は、「油断なく見張る。寝ないで起きている」という言葉です。

  主人が帰った時に先に寝ている僕は、主人のことを気にかけていない僕でしょう。すると何のためにその家にいるのか。単にあれこれ用事をするために、賃金目あてで雇われているだけかということになります。しかし、僕の最大の仕事は主人に仕えることですから、主人のことを気にかけて、戸が叩かれると「すぐに」開ける。それが僕たる者の最大の仕事です。

  私は映画俳優はあまり知りませんが、グレゴリー・ペックの名前ぐらいは知っています。「ローマの休日」は青年時代に見て、いっぺんでファンになりました。彼のファンでなく、愛らしいヘップ・バーンのファンです。グレゴリーといえば、グレゴリー・チャント、グレゴリア聖歌は賛美歌の大元をなしています。

  このグレゴリーという言葉が、今日の「油断なく見張る。寝ないで目を覚ましている」という言葉で、ギリシャ語ではグレゴローと言います。ゲンゴロウみたいですが、それぞれの時代の中で、キリストを待つ人、目覚めて主人の帰りを待つ僕であること。それがグレゴローです。

  27節と28節に、そのように「目を覚ましている僕たちは幸いだ」とあります。ある英訳では、「僕たちは幸いだ」とあるところに、感嘆符、エクスクラメーション・マークをつけています。「何と幸いなことか。幸いなるかな。」マタイ福音書5章の山上の説教で使われている言葉が、ここでも使われているのです。

  ですから、主人の帰りを、また主キリストの再び来られるのを、今か、今かと、このような思いで待つ僕たちは、イエスは何と幸いなのだろうということです。

  37節後半に、「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」とあります。古代社会において、こんな主人はありませんよ。注解書にも、これは有り得ないことだとあります。私もこんな場面は決して起こり得ないと思います。では聖書は嘘を言っているかというと、そうではありません。決してありえないことが起こる。決してないことが、ある、ということを37節は告げるのです。

  どういうことかというと、主人は婚宴の華やかなパーティから上機嫌で帰って来たのです。上等なブドウ酒で心地よく酔って、気持ちよくふらつきながら帰って来たのです。夜中です。どこの家も明りを消し寝静まっています。ところが自分ところもそうだと思っていたのに、玄関の戸を叩くと、夜中なのに扉がすぐに開けられ、僕たちが顔を輝かせて迎えに出てくれた。これ程、主人冥利に尽きるものはありません。

  人間は誰しも孤独です。社長であっても部長であっても、孤独です。一応表面は従ってくれています。でも腹の底で何を考えているか分からない。信頼していた部下が、急に立場を異にしたような言葉を吐く。気づいてみたら自分ひとりになっていたっていう場合もあります。だが、自分を喜んで待ってくれる者たちがいた。それは感激でしょう。主人冥利に尽きる、社長冥利に尽きる、夫冥利に尽きる…。

  私たちは打てば響く人になりたいと思います。挨拶でもこちらが先に声をかけるとか…。ハシゴを取り外す人は沢山います。大事なことになると逃げるのです。責任を負いたくないからです。だが私たちは支える人になりたいと思います。

  それで主人は喜びのあまり、皆を席に着かせ、コートを脱ぎエプロンをつけ、帯を締めて給仕をしてくれるのです。僕たちが今まで帯を締めて待っていた。だが今、主人が帯を締めて給仕してくれるのです。ですからある訳では、エクスクラメーション・マークが付けられているのです。「何と幸いなことか、こういう僕たちは」ということです。実に適切な訳です。

  こういう主人の姿に接するのは、今度は、僕、冥利に尽きることと言えるでしょう。主人のまたとない姿に接することができた喜びです。

           (つづく)

                                          2013年4月21日


                                          板橋大山教会 上垣 勝



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