心の芯の部分をどこに置きますか


                        パリのクリューニー中世博物館で
                               ・


                                         小さな群れよ、恐れるな (中)
                                         ルカ12章32-34節


                              (2)
  さて33節に、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」とありました。

  「売り払って」という言葉に躓(つまず)きそうになる人があるかも知れません。これをそのまま、字義通りに受け取ると誰しも躊躇します。すっかり売り払って何もかもなくしたら、明日からどう生きればいいのでしょう。持ち物だけでなく、住いも、衣服も、何もかも売って無一物になり、乞食のようになって人に施しなさいと言われているのかと考えると、誰もが戸惑います。

  確かに八木重吉は、「自分がこの着物さえも脱いで、乞食のようになって、神の道に従わなくてもよいのか。考えの末は必ずここに来る」と書きました。私も、そのような思いを持っていましたし、今もどこかでそれがあります。

  ただこれは律法的に杓子定規に取るべきではありません。そのように受け取って、自分を責めたり、ましてやあの人はまだ売り払っていない、捨てていないじゃあないかなどと、考えるのはおかしいです。イエスはそんなことをせよと言っておられません。

  ちょっと違った角度から申します。私は2年生になったAちゃんに、自分が要らないものを、人に上げちゃあならないよと言っています。惜しいと思うものを上げなさいよとも言っています。ケーキを切って大きいのと小さいのと、どれを取るかも含みます。

  また、ジッちゃん達は沢山持っているから上げるんじゃあないよ。少ししか持ってないけれど、あなたを大事に思うから上げているんだよとも言っています。また、上げたら、いつかくれるだろうと考えて上げるんじゃあない。上げたいから、上げているということです。

  世の価値観はギブ・アンド・テイクです。しかしイエスが言われるのは、ギブ・アンド・テイクでなく、その人に必要と思うから上げるということです。「人を赦すのは、その人を変えるためではありません。ただ単純にキリストに従うためです」(Br.ロジェ)。変えるためという気持ちが入ると、その赦しに取り引き勘定が出てきます。すると、これだけしたのに変わらないと、裁き心が起こって赦せない。すると以前よりも赦せなくなる。だがキリストに従うため、キリストこそ私たちの信頼すべき方であり、信仰の基準、尺度、規範である方だから赦すとなれば、話は違います。

  「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」これは一気に読むとイエスの真意が分かります。これらの言葉をひと纏(まとま)りとして、一息で読む。すると、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」という勧めが目指すのは、「尽きることのない富を天に積む」ためであり、「盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」天に心を向けるためであり、結局、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある」から、そこに心を向けるためです。

  説明がうまくできているかどうか分かりませんが、お分かりでしょか。一言で言えば「天に富を、宝を積む」ことです。それは心を天に向け、神に向けるためです。すべてを売り払うかどうかじゃあなく、心を真に天に向けるのです。

  「擦(す)り切れない財布を作り」とありますが、これは、「常に新しい財布」のことです。常にそこから新しいお金を人に出していく。気前いい、気前良さが擦り切れない財布です。そういう財布を作りなさいとおっしゃっている。

  自分自身を考えてみると、しばしば自分を手放すことを惜しんでいる自分がいます。自分を手放せばダメになると思っている。だから、出し惜しみします。特に赦しにおいて出し惜しみをし、愛において出し惜しみます。99人には気前いいのですが、1人には厳しくなったり、辛辣になったりします。実に愚かな自分です。「ひと粒の麦は死ななければ、それはただ一粒のままである。」まさに自分を固持しているそのような自分がいます。だが、「死ねば多くの実を結ぶ」のです。

  何度も申し上げますが、麦もサツマイモやジャガイモもそうですが、タネ芋を土に植えたら、芽が出てきますが、芽の成長と共に元のタネ芋は腐って来ます。新しい芽が出て芋が育つために、自分は肥やしになり、新しい芋のために死ぬのです。タネ芋は死ななければ、沢山の新しい芋になりません。

  ところが私たちは他者のために、自分を手放せないのです。パウロは、自分はユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のようになった。弱い人に対しては弱い人のようになった。自由人には自由人のように、律法の下にある人には律法の下にある人のようになったなどと、相手の心にキリストが生まれるために、できるだけ多くの人に福音が伝えられるために、「福音のためなら、私はどんなことでもする。ともに福音に与る者になるためです」と語っています。

  私たちの一番大事な宝が天にある時には恐れる必要はないのです。自分からも自由にされる。天の次元から発して、人に接するなら、自分を相手に多少手放してもダメにならないのです。むしろ神は祝福してくださるでしょう。

  「富を天に積め。心を天に向けよ。」これは自分との絶えざる戦いです。だが天に心を向け、天に宝を積む時には、常に新しく天の力によって慰めを与えられます。示唆も忠告も与えられ、砕かれもします。

  「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」ここにある心、カルディアという言葉は、人間の精神活動の主体を指します。私たちの人格、魂、心です。要するに私たちの人格の芯(しん)、中心部分です。

  私たちの富をどこに置くか。富を置く所に私たちの心の芯、中心部分がある。それが問われているのです。その時には恐れる必要はない。思い煩う必要もないのです。

       (つづく)

                                          2013年4月14日



                                          板橋大山教会 上垣 勝


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