敬意をもってコーヒーでもてなす


                           パリの中世博物館で
                               ・


                                         小さな群れよ、恐れるな (上)
                                         ルカ12章32-34節


                              (序)
  イエスは、「空の小鳥、野の花を見なさい」と語って、彼らのように神に委ねて思い煩いを捨てて生きなさいと言われました。先週申しましたが、これは清水の舞台から飛び降りるような英雄的行為ではありません。小鳥も野の花も自分の低さを知っています。弱さも小ささも知っています。増長しません。増長せず単純に神に委ねている。そこに彼らの強さがあります。彼らの自由さも清さもそこから生まれています。

  「空の小鳥、野の花」のように、弱さと脆さを知り、自分の小ささを受け入れながらキリストに委ねなさいとイエスは勧めておられるのです。それは人間にとっては狭い道であり、時にはきつい道であるかもしれませんが、自分に頼るのでなく神がおられるから信頼してその道を行くのです。神の憐れみによって、思い煩いを捨てて行くのです。

  私たちの躊躇や疑いにも拘らず、キリストが必ず道を備えて下さるからです。弱さや過ちを持つ私たちをも愛し、ご自分と私たちを引き離されません。私たちを孤児のように一人置き去りになさらない。私の過ちにも愛をもってお応えくださり、罪さえ覆ってくださるからです。

  先週は、このような所で終わりました。今日はその続きです。

                              (1)
  今日は、「小さな群れよ」とあるように、個人よりも群れ、集団、教会に重点があります。先週は私たち個々人の思い煩いの問題でしたが、今日は主キリストにある群れ全体に、「恐れるな」と語られています。「小さな群れよ」とは、ごく小さな群れを指しています。確かにローマ帝国内にあって、あるいはユダヤ社会においても12弟子たちはいと小さな群れに過ぎませんでした。

  「群れ」とは羊の群れを意味しています。羊は近眼です。遠くのことがよく分からない。将来の見通しが上手く立てられない動物です。今の私たちは羊の親戚のようになっています。というのは経済不況と震災があって、今の私たちも羊のように先のことが見通せないからです。

  ヤギはその点、見通しが立つ動物です。さっさと自分で見通しを立てて先に進んでいきます。気が強いです。先取の気性というのでしょうか。それで、ある場面では羊はヤギと一緒に飼育するのが多いようです。この日本にどんどん大胆に事をすすめようとする政治家が現れた必然性もここにあるかも知れません。ただ、ヤギは放って置けばとんでもない所にも行ってしまいます。今の政権も放っておけばとんでもない危険なところに行ってしまうのでは困ります。

  日本を羊とヤギで論じるのは無理がありますが、イエスは弟子たちの群れがごく小さいこと、巨大権力の前では一溜りもないことをご存知だからこそ、「小さな群れよ、恐れるな」とおっしゃるのです。

  私たちは時に、絶海の孤島に一人取り残されたように感じることがあるのではないでしょうか。誰も自分のことを知らない。分かってくれない。居ても居なくてもどっちでもいいかのように、素知らぬ顔で生きているからです。

  しかしイエスは、「小さな群れよ、恐れるな」とおっしゃったあと、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と約束されたのです。

  神の国とは、神のご支配です。私たちに何が必要か、良いものと悪いものを見分けて、正しく導いてくださるご支配です。神が全知全能の愛の王として、私たちを正しく愛をもって取り扱って下さることです。ですから、「神の国をくださる」とは、神があなたの王となってくださるという意味でもあります。

  弟子たち12人。これは教会の原型です。元はガリラヤの漁師を中心とした、出身地も社会的経済的レベルもバラバラな多様な人たちです。その中でペトロはリーダー格ですが、無学な漁師、ただの人間でした。決して教養豊かな高学歴の人間ではありません。他の弟子たちもだいたい同じです。それが教会の原型です。

  ですから教会はいつの時代においても、「空の小鳥、野の花」のように自分の低さ、弱さ、小ささを受け入れてイエスに委ねることが大事です。増長してはならない。高みに立っちゃあならない。立つ必要がない。むしろ仕える者になる。仕える時にのみ、この世に何かを指し示すことができるのです。

  この群れはいと小さな群れですが、この群れにはイエスがおられます。イエスを中心とした群れである時には、恐れる必要はありません。

  最後は真理のみが堅く立つからです。悪貨は良貨を駆逐するというグレシャムの法則というのがありますが、欲望を中心とした経済活動は確かにそんなところがありますが、しかし神の支配されるこの世は、最後的には真理が偽物を駆逐するでしょう。闇は光に勝つことはできず、光が闇を最後的に駆逐するでしょう。

  先程の交読詩篇145篇に、「あなたの主権はとこしえの主権、あなたの統治は代々に。主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」とありました。「主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことを持って呼ぶ人すべてに近くいまし」ともありました。

  このお方が「小さな群れ」の味方として近くおられるので、私たちは御心に沿ってこの世の生をよく生きようとするのです。「御心の天になる如く、地にもならせ給え」と主の祈りで祈るのは、この世で御心に沿う生を生きたいと切に願っているからです。

  神がご支配される国は御心が行われていますから、この世の薄汚れた国とは比べられないほど輝いています。そこでは、神の「勝利がすなわち真理です。神の品位はすなわち聖さです。神の平和はすなわち幸福」(アウグスチヌス)となって実現しています。

  ですから恐れる必要はありません。相手の中心に向かって、穏やかに敬意をもって誠実に接していき、恐れずに自分が示されることを示していく。愛と尊敬を持ってそれをしていく。それは信じる私の中心に向かって、まことの王である神が愛をもって正しく接して下さるからです。

  イタリアではバリスタというのでしょうか、コーヒーの専門家が高級なコーヒ-店にいて美味しいコーヒーを出してくれるそうです。そういうお店では、コーヒーを「敬意を持って」お客さんに出してくれるのだそうです。そんなことをこの間テレビでしていました。「穏やかに、敬意を持って」とは聖書の言葉ですが、何事も本ものの生き方は相手に敬意で接するのが一番大事でしょう。それは聖書から出ている考えです。

  対抗意識や競争意識をもってではありません。穏やかに愛の気持ちをもって接していく。ヘブライ書に、「神のみ心を行なって、約束のものを受けるために、あなたがたに必要なのは忍耐である」とあるのはこのことです。箴言にも、「穏やかに語る舌は骨をも砕く。優しく語る言葉は説得力を増す」とあります。

  天の父の御心は、私たちに神の国を喜んで与えて下さることなのです。

       (つづく)

                                          2013年4月14日



                                          板橋大山教会 上垣 勝


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