野生の美しさ


           中世博物館には「貴婦人と一角獣」の他、素晴らしい彫刻やタペストリーがありました。
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                                          思い煩いを断つもの (下)
                                          ルカ12章22-31節

                              (3)
  次にイエス様は、「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」と言われました。

  花の本性は長く生きるかとか、どれだけ美しく咲くかということではありません。置かれた場所に毎年とどまり、ただ一途に、一生懸命に咲くことです。その単純素朴さに花の美しさがあり、貴さがあり、私たちを惹きつける何ものかがあります。

  花もカラス同様、思い煩っていない。小鳥は自由に空を飛び回って移動しますが、花は植わった場所に素直にあり、環境が悪くても移動せず、その環境を受け入れて、感謝して慎ましく咲いています。

  私たちも、たとえ弱さやハンデがあっても、それを持ちつつ、一途に、喜びを持って、感謝して、一生懸命素朴に咲けばいいのでしょう。

  ソロモンのことが出てきましたが、彼は紀元前950年頃の王様で、抜きん出た知識と知恵によって繁栄する国を築きました。評判は遠い海外まで届き、アラビア半島南部のシバの女王が大勢の随員を連れ、難問を持ってきたのは有名です。旧約聖書の歴代誌下9章に、シバの女王は、ソロモンが建てた神殿とその社会の素晴らしさに息も止まるような気がしたとか、「ここに来て、自分の目で見るまでは信じていませんでしたが、噂に聞いていたことを遥かに超えています」と感嘆したとあります。

  そうした栄華を極めた王であったに拘らず、「この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と言われたのです。そして、「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」と言われました。

  野の花の美しさにイエスも思わず見とれられたのでしょうか。花は焦らず、他と比べず、思い煩いません。私は、時々野の花を手にして、彼らの装いが美しいのはなぜだろうと考えながら歩いています。

  彼らは神に一切を委ねているから美しいのではないでしょうか。神に委ねているから喜びに溢れ、感謝して咲けるのではないでしょうか。ですから、「まして、あなたがたにはなおさらのことである」と言われるのは、あなたがたも生かされている喜びと感謝で存在を装われることが一番大切だとおっしゃっているのでしょう。

  今日の段落のタイトルは「思い悩むな」です。しかしこれは全く仮の表題です。私は、イエスの言葉は、思い悩むなというより、もっと積極的なあり方を語っていると思います。

  別の日本訳や英語訳には、表題が「神への信頼」とか「神の摂理への信頼」となっているのがあります。「思い悩むな」は消極的です。だが、「神への信頼」とか「神の摂理への信頼」は積極性を強調したタイトルです。

  空の小鳥も野の花も神への信頼を一途に生きているのです。それが野生です。神に造られたままの野生の中に、素晴らしいものが秘められています。それは神の摂理への信頼であり、従順であり、感謝です。

  神への一途な信頼と感謝。彼らは、被造物の存在の根源におられる神を賛美するために、自分たちは造られたという認識であり直感です。この信頼、この確信を持つこと以上に、思い煩いを超えるものはありません。それは、本能的で、野性的とも言える直感的な信頼ですが、私たちも直感的、本能的に神に信頼すれば思い悩みや思い煩いが退くでしょう。

  イエスはそのことを、31節でこう言われます。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」自分のうえに神のご支配を求め、ご支配があることを認めることです。私をして、命の根源なる神を賛美する者にならせてくださいと祈り求めるのです。

  先ず、何にもまして、神の国を求めること。そのことを先ず優先する。野の花や空の小鳥はそれをしているのです。すると結果として、全て必要なものは備えられるのです。「加えて与えられる」とは、付録としてお与えくださるという意味です。

  「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。」切に求めるとは、ガツガツ求めることです。

  求めるなというのではありません。むしろイエスは求めよ、捜せ、門を叩けと言っておられます。遠方の友人が夜中に着いたが食べ物がない。それで友達の家に行ってドンドン扉を叩いて、起きて食べ物をくれるまでで叩き続ける。友のために求め続け、執拗に求めることの重要さをイエスは語られました。だが神を忘れ、神を退け、ガツガツ経済の追求のみに、欲望の追求にのみ向かって狂奔するなということです。

  人間として、もっと根本的なもの、本質的なものを追い求めよと言われるのです。結局それが社会を活性化し、より良いものにしていくからです。

  空の小鳥、野の花のように神に委ねて、思い煩いを越えて生きる。これは清水の舞台から飛び降りるような英雄的行為ではありません。小鳥も野の花も自分の低さを知っています。増長しません。そこに彼らの強さがあります。自由さも清さもあります。自分の弱さと脆さを知り、自分のか弱さを受け入れながらキリストに委ねることです。それは人間にとっては狭い道であり、時にはきつい道であるかもしれませんが、自分に頼るのでなく、神がおられるから信頼してこの道を行くのです。神の憐れみによって、思い煩いを捨てて行くのです。

  私たちの躊躇や疑いにも拘らず、キリストが道を拓いて下さるからです。私たちの弱さや過ちも、私たちとキリストを引き離すものではありません。イエスは、私たちを一人置き去りになさらない。孤児にはされない。私の過ちにも、イエスは愛をもってお応えくださり、罪さえ覆ってくださるからです。

         (完)

                                          2013年4月7日


                                          板橋大山教会 上垣 勝


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