腐葉土のように生きる


    アルコール依存症だった人がギネスに向けて自分に挑戦していました。シュテファン教会への道で。
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                                          主がお入用なのです (下)
                                          マルコ11章1-11節


                              (3)
  2人の弟子を向こうの村にお遣わしになる時、誰かが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と言いなさいとおっしゃいました。

  エルサレム入場というのは、イエスにとっても最後の最も重要な山場です。一生に一度のいわば晴れの舞台で、イエスはロバの子をお用いになるのです。オープンカーを使われません。自転車で行かれるようなものです。「主がお入り用なのです」とは、イエスは神のご用のために子ロバをお選びになった。それを意志されたという意味です。

  ロバは神聖な動物でも何でもありません。馬より安く手に入る荷役用の家畜です。だがキリストのため、聖なる御用のために抜擢されたのです。イエスは低いものを大事業のためにお用いになるのです。

  神の子イエスはロバに乗られます。だが低さの中でも権威を持っておられます。低さの中でも権威を失われません。十字架にかけられ、どんなに酷く、乱暴に扱われても人としての尊厳を失われませんでした。弟子たちの足を洗うという奴隷の仕事をしながら尊厳を失われませんでした。そこにこのお方の貴さがあります。

  この子ロバの方は、普通なら慌ててパニックを起こすのですが、イエスの前に連れられて来たとき、何故か、このお方をお乗せしようと腹を固めたのでしょうか。オリーブ山の下りもシオンの丘の登りも大群衆の中をゆく時も、堂々とイエスをお乗せして入場したのです。腹を固めれば、人生初めての舞台であっても、神が共におられて、動ぜずその中を通って行くことができるということでしょう。

  久しぶりにダグ・ハマーショルドの言葉を紹介します。彼は第二次世界大戦後まもなく、1953年の一番難しい時代に国連事務総長に選ばれました。スエズ危機、レバノン紛争、そしてコンゴ紛争の解決のために身を粉にして働きましたが、惜しくもコンゴの飛行機事故で亡くなりました。紛争の巻き添えを喰ったとの説もあります。

  彼はこう言っています。「我々はこの世界をして、物質上の事柄が、わがもの顔に幅をきかすようにさせるわけには行かない。」今の時代につながる言葉です。彼はこのような精神で事務総長をしたのです。自国経済に有利になるためや、金儲けのためではありません。

  また、「内面の静寂を保つこと。喧騒の只中にあって。…穏やかなままでいること。麦の芽生える…しっとりした腐葉土のままでいること。…塵を巻き上げながら、広場をどしどし踏んでいく人たちが、どれほど大勢いようとも」と書きました。

  彼は、大勢に迎合しない人でした。威勢良くのし歩く人々の中にありながら、この世界にあって腐葉土として、大地の下肥になって働こうとしました。「一粒の麦のように」、また、地に落ちた一粒の麦が育つために、腐葉土として生きる。

  麦が実を結ぶには、地に落ちて自らに死ななければなりません。地とは他者です、隣人です。しかし、ハマーショルドキリスト者としてもう一つのことをいう訳です。一粒の麦を育てるために、自分は湿った良い腐葉土になって仕えよう。

  子ロバであっていいのです。イエスは子ロバを選ばれます。子ロバこそ特別な御用があるのです。子ロバだからこそ神の栄光を現せるのです。子ロバしか現せない神の栄光があるのです。子ロバであっても、神様の御用のために用いられないことは決してないのです。

  ただ、子ロバということで、若い、未熟な者だけを考える必要はありません。いや、若者だけを考えてはなりません。

  世界中には、何千何万という修道院があります。カトリックだけでなく、プロテスタント修道院も少しあります。わずか数名しかいないものもありますし、若い人が入ってこなくて、老人だけの修道院もあります。やがては閉鎖されるでしょう。

  ある時、日本基督教団の牧師たち十数人で京都の修道院を訪ねたことがありました。目と鼻と口だけを出して、他はベールや服をまとった若々しいシスターたちと、窓を挟んで対話をしました。厳格な修道会で、シスターになると一生そこから出ない規則です。

  だがシスターたちは大変快活で、生き生きしていました。私は思い切って、「皆さんはお若いですが、平均年齢は何才ほどですか」とお聞きしました。30才代かと思って聞いたのです。そしたら、私たちは平均年齢を調べたことはありませんと言って、シスターたちが互いに顔を見合わせてクスクス笑いながら、「60代程…でしょ。皆さん」といって、面白そうに笑われたのです。目と鼻と口だけ出しているので、何十才も若々しく見えたのです。

  ある人がこんなことを書いていました。「老人数人だけの修道院を見ることがある。彼らの発展の時期は終わったようである。…若者が入ってくるのは遅すぎる。しかし、そこに漂っている快活さと平安には感嘆せざるを得ない。メンバーはいずれその修道院が消滅することを知っている。だがそれはどうでもよい。彼らが重視するのは、自分に与えられた恵みを最後まで完全に生きることである。このような修道院は現代の私たちに多くのものをもたらしてくれる。失敗を受け入れ、平安のうちに死ぬことを教えてくれる。」(J.バニエ)

  しかし、老人になって苦悩に打ちひしがれている修道院もあるというのです。「彼らは、不毛性が、それを神に捧げることによって命を与えるものに変化することを知らない」と述べていました。

  これは非常に深い洞察です。修道院のことだけではありません。私たち個人のあり方についても、多くの良質の示唆を与えられます。

  カナの結婚式で、イエスは水をぶどう酒に変えられました。しかも馥郁たる飛び切り上等のぶどう酒に変えられたのです。

  ロバの子もキリストに用いられ、2千年間も人々に覚えられる御用のために用いられました。私たちはロバの子以上の価値を持つ人間です。どうして神のために、人のために用いられないことがあるでしょう。人生は利益を上げることではありません。そろばん勘定が人生ではありません。それらはやがて朽ち果てます。無になります。

  愛は永遠です。一粒の麦として、地に落ちて死ぬことです。そしてまた、ハマーショルドが言うように、一粒の麦を育てるしっとりした腐葉土になって仕えることです。その時、生きている充実感も意味も生まれます。

  高齢者だからもう用いられない。そんなことはないのです。「不毛性が、それを神に捧げることによって、命を与えるものに変化する」のです。今週、これを深く味わっていきましょう。

          (完)

                                         2013年3月24日


                                         板橋大山教会   上垣 勝



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