天から静々降ってくる花嫁


  ウイーンにあるベネディクト修道院の宿舎は質素で快適でした。レセプショニストが素人なのがいいです。
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                                           新しい一つの都 (上)
                                           ヨハネ黙示録21章1-6節


                              (序)
  久し振りに黙示録を取り上げました。聖書全巻の最後に置かれたこの書物が語ろうとする根本的なメッセージは何でしょうか。

  多くの古代の書物の開巻劈頭の言葉は非常に重要だと言われます。ヨハネ黙示録1章1節は、「イエス・キリストの黙示」となっています。元のギリシャ語では、「アポカリプティス・イエスー・クリストゥ」という言葉です。アポカリプティスという言葉は英語にもなっていて、アポカリプス。黙示、啓示と言います。それでこのギリシャ語は、イエス・キリストの黙示あるいは啓示と訳されます。

  2つの意味を持っています。1つは、イエス・キリストが表された黙示。ですからイエス・キリストが何かを黙示され、啓示された。それを書き記すという意味です。第2は、イエス・キリストについての黙示。ですからイエス・キリストについて、イエスはどういうお方かをここに記すという意味です。

  このように2つの意味を持ちますが、どちらかは決め難いことです。これら2つで、本質的なメッセージを同時に語ろうとしていると見た方がいいでしょう。

  新約聖書の他の書物は、普通の表現で書かれています。しかし黙示録は、不思議な人物や動物、天使や怪物、天の王座に座す者やその周りに集まった大群衆など。また、世の終わりを暗示する言葉もあります。

  ただ、これらもイエス・キリストが語られた真理、また私たちの人生の深い意味を語ろうとしたもので、幻やシンボルや奇妙な現象は、言葉では表し切れない深い真理を、絵画的に、視覚に訴える仕方で表そうとしているものです。

  なぜそんな幻やシンボルで述べたかというと、当時はローマ帝国時代です。ネロの迫害やそれ以上に激しいドミティアヌス時代の迫害があったわけで、ローマを名指して語ることができないのです。そこでやむなく比喩や隠喩で、やがて必ず起こるローマの崩壊を預言して語ったのです。

                              (1)
  さて、今日の1節は、「私はまた、新しい天と新しい地を見た」と語ります。彼は先ず、新しい天地が現れるのを見たのです。それに続き、「最初の天と最初の地は去って行き、海もなくなった」と述べています。

  今、私たちが生活し住むこの天地、この世界は、やがてあるいは今にも、「古い天地」になると暗示しています。人は皆だれしも、この天地が最後の拠り所です。この天地の下で家族のつながり、会社や同僚のつながり、色んな仲間、集まり、グループ、ペットもいますが、それらがずっと続くと思っていますが、この全てが「古い天地」になり、過ぎ去ることが暗示されているわけで、冷めた目で現実を直視して色々な人間関係を見直す必要があるということでしょう。愛をなくして良いというのでありませんが、見直す必要がありはしまいかということです。

  古い天地、古い世界と申しましたが、黙示録ではそれは大バビロンのことです。端的に言えば当時の大ローマ帝国の支配です。ただそれが直接的に言えないから、大バビロンと言う言葉で、それがやがて、もしくはすぐにも古い天地になると言ったのです。今に直せば、アメリカも日本も中国も、やがてもしくは直ちにそうなると言うことになります。ですから、黙示録は非常に革命的な書物です。

  さてヨハネは、一つの都が、天から降って来るのを見たといいます。こうありました。最初の天地が去った後、「私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降ってくるのを見た。」

  大事なのは、ヨハネが見た幻は驚くべき光景、一大スペクタクルですが、決して恐怖を呼び起こす、人を威嚇するものではないことです。仏教の地獄絵や上野にあるロダン最後の審判のようなおどろおどろしい、恐ろしいものでなく、むしろ聖なる都は、若々しく、美しい花嫁の華やいだ姿をして、静々、天から舞い降りて来るわけで、見とれるばかりの美しい天空の一大光景として語られています。

  だが現代人は、余りにも荒唐無稽だと一蹴するかも知れない光景です。

  先日、テレビで、「おもろそうし」という沖縄に伝わる最古の歌をしていました。子どもの番組です。日本の年代で言えば、戦国時代から江戸初期に書かれた古い歌、古謡です。その中に、日本語訳で申しますと、

  「アレ、上がる三日月は、神さまの立派な弓。
   アレ、上がる金星は、アレ、神様の立派な矢。
   アレ、上がる星々は、アレ、神様が髪に差す櫛。
   アレ、上がる横雲は、アレ、神様の大切な帯。」

  雄大な素晴らしい歌でした。私は、琉球王国はかなり高い文化を持っていたろうと思います。

  この歌はどういう事かと言いますと、丁度昨夜は空が澄んで、三日月がくっきり美しい姿でした。三日月は確かに弓なりに反って天空に浮かんでいるのです。「アレ、上がる三日月は、神さまの立派な弓」と言う通りです。金星は、月から少し離れた所にあって、弓につがえられた尖った矢のごとく金色に輝いていました。また天の星々を同一方向に直線でつなぐと、天空にかかった神様の髪の毛をとく美しい櫛のようだと言うのです。また、横に長くたなびく雲は、朝日、夕日に赤く青く染まって、まるで神様の美しい錦帯だというのでしょう。

  ヨハネ黙示録の、神の元から出て、天から静々と降ってくる着飾った花嫁、新しい聖なる都のイメージは、この古謡とどこか通じるものがあると思いました。ただ黙示録の方はまるで美しいオーロラのように更に物語性のある雄大な光景です。

  これは神についての新しい認識を示そうとしているのです。希望に満ちた新しい神理解です。同時に、私たち人間の命について、なぜ私たちはここに存在しているかについての理解です。


         (つづく)

                                          2013年3月17日



                                          板橋大山教会   上垣 勝


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