何を触っているか分かる、人工の手


                     3月5日午後、柳が芽吹き始めていました。
               芽吹いた若葉の間に小ぶりの猫じゃらしの形の「柳の花」が咲いていました。
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                                        キリストの平和に与る (上)
                                         コロサイ3章12-17節


                              (序)
  今日の15節に、「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」とありました。私たちは一つとされて、今日も教会に集っています。教会はキリストの一つの体です。「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」とありますから、こうして私たちがキリストに招かれて一つの体として集まっているのは、平和に与るためであるといっていいでしょう。

  ですから、今日の礼拝を通してキリストに平和に与からせていただきましょう。そのことを願いながら礼拝をいたしましょう。

                              (1)
  まず12節に、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」とありました。

  「あなたがたは神に選ばれ…」とありますが、これはコロサイ教会に、あなたがたキリスト者はどういう者かということを先ず語っている言葉です。あなたがたは皆、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのだから、どう生きるべきかを語るわけです。

  ですから神に選ばれと申しますが、鼻持ちならない選民意識などとは無関係ですし、そのような意識で人をとがめ、非難するのでなく、パウロはここにあるような謙遜、柔和、寛容を説いています。  

  選民意識というのは、自分だけが真理を知っていると思う事から出てくる態度です。それはキリストと関係ありません。それは人を舐めた、基本的な間違った態度です。聖書ではファリサイ人たちはしばしばそういう傲慢を持った人として出てきますが、決して謙遜ではありません。

  キリストが私たちを惹きつけるのは、人々への囚われない愛があるからです。温かい御目が誰に対しても注がれているからです。しかも柔和で、憐れみ深くあります。

  「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」とあるのは、コロサイのキリスト者たちへの賛辞でもありますが、歯が浮くような褒め言葉でなく、どんなキリスト者にも当てはまる神の選びの確かさ、恵みの大きさ、素晴らしさを指す言葉です。

  江戸城は元は太田道灌が築城し、約50年後に家康が入城して外濠川や神田川を用いて一部2重になったり、3重になったり、堀を巡らせています。

  「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている」とあるのは、私たちは小さく、弱い者ですが、神の恵みによって3重に心を留められ、いわば3重の堀に堅固に囲まれているようなもので、これらが私たちを力づけ、慰め、喜ばせるものとして書かれているのでしょう。

  そしてそのように神の恵みに堅固に与っているのですから、互いに「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と勧められるわけです。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容。今日は、一つ一つ取り上げませんが、これらは何と素晴らしい賜物でしょう。これらは愛らしく、美しい、気品ある5人の娘さんと言ってもいい気がします。一人は憐れみの心、一人は慈愛、一人は謙遜、一人は柔和、一人は寛容と、それぞれをその人格の中に豊かに具えている娘さんたちです。

  この5つは、神の恵みを受けるときに授けられる賜物です。ですから、「身につけなさい」、羽織りなさい、洋服を着るように身にまといなさいと勧められています。

  また、「あなたがたは愛されているのですから」と語られ、「主があなた方を赦して下さったように」とあるように、この5つの賜物の源はキリストにあり、キリストの赦しに、その愛にあります。キリストを知り信じる時に、私たちにこれらが恵みとなって注がれて来るのです。一切はそこから始まり、そこを起点とするものです。私たちの内には余りそういうものがなかったのですが、キリストに赦されたことによって赦しが、愛されたことによって愛が育てられて行くのです。

  私は今、抽象的なことを考えていません。キリストを知り、キリストを起点とするとき、そこから愛が、赦しが、そして憐れみの心や、慈愛などが生まれて来るのです。

  最近、大変驚きましたのは、今はロボットの開発がどんどん進歩しているようで、これはロボットと言うのかどうか知りませんが、手首を切断した人たちのために人工的なバイオニック・ハンドと言いますが、自由に動く軽金属の手が開発されたと海外の新聞は報道しています。

  驚いたのは、自分の手でなく人工的な手なのに、何を触っているかが分るそうで、むろん握ったり離したりもできます。そんな人工の手がこの2月にスイスで開発され、前腕部を切断したイタリア人に着用されたのです。腕の神経にロボットの細い電線がつながって、手のセンサーが頭に情報を伝え、頭の命令が手に伝わって、強く握ったり、軽く握ったり、何を握っているか分かったり、色々できるようで、まあ、たいしたもので、本当に驚きました。

  Dr.ミセラという方がどういう方か知りませんが、こうした背景には、研究を担う人たちの優しさ、労わり、憐れみの心、慈愛が必ずあるだろうと思います。

  ヨハネ第1の手紙に、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っています。愛することのない者は、神を知りません。神は愛だからです」とありますが、愛の源はキリストにあり、神にあります。また、真の愛に達したいと思う者は、キリストに行き、神に行くときに、愛とは何かに一層目が開かれますから、このような研究をする人が神とキリストに行くことによって、さらにその愛が深められていくと思いました。

      (つづく)

                                          2013年3月17日



                                          板橋大山教会   上垣 勝


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