愛する兄弟へアドバイス


                   物語性で満ち多くのことを語りかけています。(ウイーンで)
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                                        愛する兄弟へのアドバイス (下)
                                        Ⅱテサロニケ3章6-15節


                              (3)
  それにしても、パウロは「怠惰な生活」を戒めているのは確かです。彼は夜昼苦労して手ずから働きました。ただでパンをもらおうとしませんでした。当時のローマ社会は、「労働は奴隷の仕事」だと考え貴族や一般人は労働を蔑視したのです。肉体労働を見下げて働かなかったのです。ところが、キリスト教は労働を尊いものとしました。

  労働の尊さは旧約聖書時代に遡る考えです。創世記は、人間は「土に返るまで、顔に汗してパンを得る存在」と見ています。これはアダムの堕落後の姿として語っていますが、これこそ人間の現実の姿、健全な姿と言えます。人は、「生涯、食物を得ようと苦しむ者」ともありますが、これが神の前での現実の姿だということでしょう。

  こう考えると、今日の日本人はユダヤ人よりも古代ローマ人の考えに近いでしょう。というのは、多くの日本人は、身体を使い、汗を流し、手を汚して働くよりも、口で人を使い、言葉で人を動かし、人の上に立って生きることを美徳としているからです。ブルーカラーは奴隷の仕事といった見下げる風潮があります。

  国会議員でブル-カラーを経験した人は、何人いるでしょう。手を汚さず、株取引で生きている人がどんどん増えています。これは決して健全な社会ではないのではありませんか。

  今、円安になっています。これは何兆円も円が投入されたからです。金融緩和をしたからです。しかも政府の息の丸々かかった人物を強引に日銀総裁に据えようとしています。経済が活発になっている多くは、株や債権、円の取引で儲けている人たちです。物造りはまだ活発化していません。ましてや生活保護者は大打撃を受けさせられようとしています。

  パウロ流に言うなら、顔に汗してパンを得ようとせず、株や投機だけで金儲けするのは、ゲームや博打(ばくち)の類、頭を使い冷や汗はかくでしょうが、どっちかというと「働かずして食べる」の部類です。

  パウロは怠惰な生活をしないように、自ら進んで働いたのです。それは、援助を受ける権利がなかったからではないと、彼は釘を刺しています。そして、テサロニケに滞在していた時、「怠惰な生活をしませんでした。また、誰からもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、誰にも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。…あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした」と述べています。

  パウロはテサロニケではヤソンの家に寄宿しましたが、宿代も食費代も進んで払った。ただでパンをもらわなかったのです。経済的に甘えなかったのです。躓きにならないためであり、日常の暮らし方が証になるためです。パウロは旅行先でも、テント作り職人として日銭を稼いだのです。

  パウロが各地で教えたのは、キリストの教えだけではありません。彼は深い信仰の思想家でしたが、単なる思弁家ではありません。彼は「身をもって模範を示」し、自分が説いた信仰の思想を現実に生きたのです。また自ら信仰に生きて、生きたそのことを人々に説いたのです。

  彼は生活と考えが、行動と言葉が一致するように、率先して模範を示したのです。それが今日の箇所で言われている中心的なことです。キリスト教の考えが生活の中に具体化され、実践されなければ、空論になります。

  バチカンは今、大きな苦しみにあります。組織は巨大ですが、内側に闇の部分が渦巻いている。説くところと行いが乖離し、一致していないからです。いや、それはどこでも起こる可能性があります。

  イエスは大工でしたが、興味ある話が残っています。一説では彼は優れた大工で、パレスティナで一番立派な牛のくびきを作ったといいます。それで人々は国中から買いに来たのです。イエスは親切に、一頭一頭の肩に合うくびきを工夫したのでしょう。牛は、イエスが作ったくびきは負いやすかった筈です。農家の人は助かりました。イエス様の説くところは、愛の行いによって裏打ちされていたのです。

  2月の礼拝では、いつも最初に讃美歌533番を歌いました。「どんな時でも、どんな時でも、苦しみに負けず、くじけてはならない。イエス様の、イエス様の愛を信じて。どんな時でも、どんな時でも、幸せを望み、くじけてはならない。イエス様の、イエス様の愛があるから。」

  小学2年生で亡くなった高橋順子ちゃんの短い詩でした。骨にできた悪性のできもの、骨肉腫で我慢できない程の痛さと苦しみとに闘う中で、7才の子どもが作った詩です。「くじけてはならない。イエス様の、イエス様の愛を信じて。イエス様の、イエス様の愛があるから」と言って、自分を励ましたのです。7才の子供において、信仰と生活が一体になっている。そこに私たちは心打たれるのです。

  イザヤ書49章に、「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」とあります。初めに紹介したハリスさんは、ホームレスに落ちぶれても、イエス様の愛がその身に刻みつけられていたのでしょう。その愛が、ホームレスに転落しても人のものをごまかさぬ誠実となり、指輪の持ち主が戻って来るのを待ち続けることを得させたのでしょう。それが驚きを人々に与えた。

  最初に触れましたが、テサロニケ第Ⅰ、第Ⅱの手紙で何回も出てきたのは、「主イエスに結ばれた者として」という言葉です。この手紙を通して、「主イエスに結ばれた者として」どう生きるかが一貫して語られていました。

  それはキリストに結ばれ、その愛に愛された者としての生き方です。その中心はキリストの十字架の愛ですが、罪を赦すまでに愛して下さったその愛に応える者たちの生き方です。それがこの手紙に一貫して流れる主旋律です。

  その主旋律の下で、キリスト者の日常生活として出てくる兄弟愛、互いに愛し合う事の勧めや、落ち着いた生活をし、仕事に励み、自分の手で働くように努めることの勧め、汚れた生き方でなく聖なる生き方、また互いに平和に過ごし、怠けている者を戒め、気落ちしている者を励まし、弱い者を助け、全ての人に忍耐強く接することなどを勧める色々な旋律が奏でられていきます。

  キリストの愛が中心にあって、そこからキリスト教的生き方がいろいろな領域で、色々な音色となって出てくる。

  今日の箇所でも、「主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」と勧めています。落ち着いた健全な生活です。そしてキリストを仰いで、たゆまず善いことをしていく。

  最後に、「この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」と、厳しく記しています。一抹の冷たさを感じないわけではありません。だが、「敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」とあるように、愛を持った兄弟へのアドバイスを説いています。

  愛のない警告でなく、愛と赦しのある警告やアドバイスです。相手を追い込むことが目的ではありません。相手が変わること、救われること、真理に立ち返り、キリストに結ばれている喜びを経験することが最も大切なことだからです。

         (完)

                                          2013年3月3日



                                          板橋大山教会   上垣 勝


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