教会は竈(かまど)に似ている


                       石神井川に来る鴨たちは6種類ほどです
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                                           Aー被災地名ーからの手紙 (上)
                                           Ⅱテサロニケ3章1-5節

              (今回は実際の題をブログでは変更します。また次回に登場する牧師は仮名です。)


                              (1)
  1節以下に、「終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください」とありました。

  「終わりに」とありますから、パウロはこれで口述筆記を終わろうとするわけですが、手紙を書いても、コリントから何百キロも離れたテサロニケまで誰かが使者として行かなければなりませんから、今のEメールのようにしばしば送れるものではありません。

  ですから最後に言い残した大事なことをここに記すというのです。大事なこととは、「祈ってください」ということです。彼は1節、2節と、2度にわたり、「祈ってください」と繰り返し記したのです。祈りはキリスト者の特権です。祈りの真理を理解するまでは、未だ福音の真理に達していないと言ってもいいほどです。

  ところが、「祈っています」とか、「祈って下さい」という言葉が、挨拶がてらに安々語られる場合が多くあるのでないでしょうか。実際その場を離れると祈ってもいない。それはまだ祈りの本質に触れていないからです。

  パウロは、幾つかの手紙で祈りを求めています。祈りは聞かれることを知っていたからでしょう。しかしそれだけでなく、互いに相手のために祈り合うことによって、連帯が強められることをよく知っていたからです。教会は、キリスト者の相互の祈りによって教会になっていくからです。キリスト者相互が祈りで関係を取り合って、結び合わされ、連帯していくとき、教会の命が豊かにされるのです。

  教会というのは竈(かまど)に似ていますね。竈に1本、木を焼(く)べても燃えやしません。2本、3本、4本と何本も焼べて種火をつけるとドンドン燃えていきます。みんな一緒になって心を合わせて祈り合う。その時、教会の命の火が盛んに燃え出すのです。

  さてパウロは、「主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください」と言っています。パウロたちはそういう困難に遭遇していたのでしょう。だが彼は、その困難を恥と思わず、率直に述べて相手に祈りの課題を知らせたのです。「道に外れた悪人ども」とは誰か、テサロニケの人たちにも分かっていたと言われていますが、それにしても、それを持ち出すのは普通だったらやはり恥ずかしい。でも、彼はそれを率直に明かしたのです。

  この「主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」とは、具体的にはどういうことでしょう。「主の言葉」は福音のことです。福音がなかなか人々の胸に届いていかない、入っていかない。幾ら語っても、御言葉の進展の困難、伝道の行き詰まりがあったということでしょうか。

  それとも、「速やかに宣べ伝えられるように」とありますから、伝道の第一歩で躓きが起こり、伝道が開始できない状況があったのでしょうか。テサロニケでは「速やかに宣べ伝えられた」のに、この巨大な商業都市・コリントでは速やかにいかない。

  その伝道の進展と関係あるのかないのか。「また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください」と願っているわけです。世には酷い人がいるものです。最近驚いたのは、南アフリカの義足のランナーが殺人を犯したことで目下、保釈の裁判が進んでいますが、何とその主任刑事が7人の殺人未遂で訴えられたのです。そんなことってありますか。まさに、「道に外れた悪人ども」というのが存在することがあるのです。やはり、商都コリントには、馬の目を抜く程の非常識極まりないことを要求する人もいたのかも知れません。パウロは別の箇所で、「偽兄弟からの難」と言っていますが、信仰があるかに見えて、お金に汚い人だったのでしょうか。「苦い胆汁があり、不義の縄目が絡み付いている」と使徒言行録にありますが、そう言う人を想像します。こんな人とは手を切りたいと思う者たちだったかも知れません。

  その詳細は今日では分かりませんが、そういう者どもから、「逃れられるように、と祈ってください」と願いました。

  当時は初代教会です。まだキリスト教は呱呱(ここ)の産声(うぶごえ)を上げたばかりです。広大なローマ帝国内で、キリスト教はまだケシ粒より小さい存在でしかありませんでした。それに比べ、ローマ帝国は巨大で、壮大で、圧倒的な軍事力、経済力、そして頂点に絶対的権力を持つ皇帝が聳(そび)えるように控えています。またローマの建築にしろ、寺院にしろ、目もくらむばかり壮大でした。そこに彫刻、モザイク、絵画がふんだんに配置され、演劇、文学、哲学、法律、その他、ローマ文化は多岐にわたり華々しく花開いていました。そういう中でキリストの福音は当時、何ほどの力を発揮できるでしょう。赤子の首をひねり潰すが如き存在だったでしょう。

  そのような力の比較の中で、キリスト教徒になりながら、ローマの絶対的権力を傘に、鼻持ちならないエリート意識を振りかざして、キリスト者仲間に対して居丈高に傲慢に振舞う人もあったかも知れません。もしそういう男どもが教会の中に生まれたら、たとえパウロと言え、中々彼らに立ち向かうことは困難だったでしょう。

      (つづく)

                                          2013年2月24日



                                          板橋大山教会   上垣 勝


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