イエスがサタンに誘惑されたら


                         シュテファン教会(ウイーン)
                               ・




                                          どこにいても君を守る (下)
                                          詩篇91篇1-16節


                              (3)
  マタイ26章を見ると、イエスゲッセマネの園で、「アバ、父よ。できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい」と祈られ、2度目には、「父よ、私が飲まない限り、この杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈られました。

  イエスにとって神に信頼するということは、自分に信頼を置くことよりも、神に委ね、神に従順であることです。神に信頼するということは、人生でたとえ苦労したり苦難が来たとしても、永遠なるお方に根を下ろすことです。信仰者はたとえ地上では旅人のような存在であっても、動かずしっかり根を下ろしているのです。確かな根を持っているのです。信仰者は旅人であっても地上をさ迷う放浪者でなく、国籍を天に持って、確かな座標軸を持って、目指すところに向かって歩んでいます。

  イエスの誕生後、聖家族はヘロデ王に追われてエジプトに逃れました。イエスたちは暴君の手を逃れた難民でした。だが難民でありながら、神に根を下ろして日々生きたのです。

  神に信頼を置くということは、人生が必ずしも生き易くなるわけではありません。また神に信頼する人は、世から離れて無頓着になったり子供っぽくなったりすることではありません。神に従う道を選んだ巡礼者たちにとって、人生はしばしば闘いになったり、内面的葛藤を持つ場合もありました。

  この詩篇を書いた信仰者は、狩猟や戦争のイメージを用いて、人生は闘いであることを述べています。3節で、神は巧妙な罠から解き放ってくださると語ります。人生には確かに巧妙な罠を仕掛けてくる人達がいますが、必ずそれから逃れさせて下さるのです。6節で、恐ろしい病から守ってくださるとあります。色々難しい病に襲われる場合もあります。だが、たとえ病が体を殺しても,魂や人格まで滅ぼすことはできません。5節で、飛びかける矢を避けしめと言います。実社会で生きていると思わぬ方向から矢が飛んでくることもあります。7節では、たとえ左右に千人万人が倒れても彼を損なうことはないと述べています。人生は闘いです。だが損なわれることはありません。

  荒野の誘惑のイエスも、巧妙なサタンとの闘いでした。それはまたご自分との戦いでもありました。

                              (4)
  もしイエスがサタンの罠にかかり誘惑されたら、父なる神との関係は破れたでしょう。だがイエスは、神の言葉から利益を得よと、巧妙に勧めるサタンの言葉を拒否されたのです。自分の救いのために、神が奇跡を行うように願うことを拒否されたのです。もしそういうことになりそれが成功すれば、イエスの関心は自分の信仰深さを誇り、信仰深くない者や不敬虔な者、最も小さい者には目もくれず、信心深い者だけを大事にするようになって行ったでしょう。言葉を変えて言えば、イエスは敬虔な信者たちの救い主にはなっても、世界の救い主にはなられなかったでしょう。

  今、上野の美術館にエル・グレコの絵画展が来ています。彼は目に見えぬものを描き出そうとした画家であったと言われています。私たちの個人の歴史にも世界の歴史にも、神が存在されるから神を信じるのです。神は完全に人の目に隠されている時も、その外見にかかわらず存在されるから信じるのです。神を全身全霊で信頼するとは、目に見える外面的状況がどうであっても、神は最後の目標に向かって世界の歴史を導き、私たち個人を導いておられるのを信頼していくことです。

  私たちも、神殿の一番高い所から飛び降りる必要はありません。私たちの信仰深さを見せる必要はありません。

  そのようなことをしなくても、14節にあるように、「災いから逃れさせよう」と約束し、あるいは「彼を高く上げよう」と約束しておられます。神は、神を愛する者を最後的にお救いになります。神は、その名を知る者をお守りになり、神に呼び求める者に応えてくださり、共にいて助けて下さり、「名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」と約束下さったのです。

  詩篇138篇に、「主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くいましても、傲慢な者を知っておられます」とあります。神の御目は曇っていません。低くされ、卑しくされている者を見守っておられます。

  またホセア書13章に、「私があなたを知ったのだ。荒れ野で、乾ききった地で」とあります。肥沃な良い地ではありません。無論そこでも知ってくださいますが、問題を持って魂がカラカラに渇く砂漠のような困難な荒れた地にいる私たちを、知って下さっているのです。どこにいても守ってくださるのです。

  それは、ナザレのイエスが、荒野や、乾き切ったような地で苦労している最も小さい人の友になられたからです。ボロボロになった心をも真実に癒す人になられた。健康な人には医者はいらない、いるのは病人である。私が来たのは罪人が悔い改めて救われるためであると言われました。イエスは、私という失われた一匹の羊を探し出し、どこにいても守り、救うために来られたのです。

  「いと高き神のもとに隠れ」とありましたが、最も高いところにおられる神は、最も低くなられた方です。いと高き神は、イエスの愛において最も低くなり、ご自分の命を進んでお与えくださいました。私たちの目には神が十字架上におられるのは見えませんが、神はただ愛です。私たちを救うために、ただ愛のみの方として、今も十字架にかかっておられます。

  イエスは「高く」上げられました。それは世界が注目するような表彰台や威風堂々とした王座ではありません。それは高い十字架の上でした。呪われるためです。イエスの誉れの高さは、十字架の磔という万人を救うという誉れあるわざでした。呪われ卑しくされたイエスの低さこそ、私たちを救う真の貴さであり、高さでした。

  このお方に、私たちが「身を寄せて隠れ」、「その陰に宿る」永遠の安らぎの場所、避けどころ、癒しを与える砦があります。

       (完)

                                          2013年2月17日



                                          板橋大山教会   上垣 勝


       ・ホームページはこちらです;http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/ 

       ・板橋大山教会への道順は、下のホームページをごらん下さい。
                   http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/