「末吉」のおみくじ


                          私の目の前に突如現れたハト
                               ・




                                         救いとなる真理を愛そう (中)
                                         Ⅱテサロニケ2章1-12節
 

                              (2)
  聖書に戻りますが、3節以下で、「誰がどのような手段を用いても、だまされてはいけません」と述べ、「なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。…」と書いています。ここは時代状況を反映していたり、暗喩的であったりして理解しにくいですが、細部はあまり重要ではありません。

  「不法の者」というのは、当時はほぼ誰だか分かっていたでしょう。彼は不法を犯し、神殿に座り込み、神であると宣言すると言うのです。今日では考え難いことですが、ボンヘッファーヒトラーをこう理解したのは有名です。戦前の日本でも天皇は現人神でした。神として、皇居に向かって拝むことを強制されました。長い歴史の中では異常なことが起こります。

  それから、「今、彼を抑えているものがある」とか、抑えている者が取り除かれると「不法の者」が現れるとか述べています。

  また、「不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます」と、中世の絵画のようなシンボリックな表現が見られますが、これらは審判者イエスの権威を隠喩的な言葉で語っているわけです。

  また、不法の者がサタンの働きとして現われ、「偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行う」と言います。すなわち普通人にない並外れた異常な力で人をたぶらかし、騙そうとし、種々のトリックや仕掛けで人心を惑わして魔術を行う。魔術というのは必ずトリックがあります。そして裏に欺きと不義を隠しています。

                              (3)
  こうして10節以下で、「彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです」と述べるのです。

  パウロは、「自分の救いとなる真理を愛そうとしなければ滅びる」と語り、真理でなく虚偽を愛するなら滅びると説いたのです。これは大切です。次の13節には、「真理に対するあなたがたの信仰」という言葉も出てきますが、救いとなる真理を愛し、真理に堅く立ちなさいということです。

  先日の平日礼拝の時、外から昼食を取ってお出し下さいまして、それに店のお箸が付いていておみ籤も付いていたのです。

  おみ籤など信じませんが、何年ぶりかで手にして面白半分に開けましたら、私は「末吉」でした。末吉とはどういう意味かと思って読みましたら、実にうまいことを書いていて感心しました。ああいう文章をバイトで書くコピー・ライターがいるんでしょうね。

  私の前の方も「末吉」だと言うのです。しかしその方は、それを見て嫌な顔をして暫く黙っておられました。それで尋ねますと、「末吉ですよ。今、何をしてもうまく行かないんだから」と、吐き捨てるように言われたんです。たかがおみ籤じゃあないか。そんなにムキにならなくてもいいと思いましたが、口には出しません。

  それで末吉のおみ籤をもう一度見ましたら、「今は、何をしてもうまくいかない」と書いてあるんです。なる程、この方はこれを読んだのかと思いました。だが続いて、「心静かに時期を待てば、将来必ず花開く」と書いてあるんです。私はこっちの方を読んだんです。

  こんなもの信じませんが、その方は前半を読んで、「やっぱりダメだ、ダメなことばっかりだ」とつぶやいていらっしゃる。しかし私は、ダメなことはあっても、後半に目がいっているのです。「心静かに時期を待てばいい」と、何といいお御籤かと思ったのです。これは運が開けるかも知れないってね…。

  おみ籤などどうでもいいのですが、「自分の救いとなる真理を愛そうと」しなければダメになるのです。救いとなる神の愛の真理を信じ、それを固く取って離さない。その真理にとどまる。それが大事で、でなければ滅びるというのです。折角イエス様が愛して下さるのに、イエスの愛でなく、惑わす力や偽りを信じ、マイナスばかりに目を向けていては、折角来る幸いも来ません。開く花も咲かない。

  やがてキリストが来られるのです。みもとに集められるのです。すなわちキリストと顔と顔を合わせて相いまみえ、その愛に包まれる日が来るのです。別の言葉で言えば、最後は帳尻が合うように、神が解決して下さるということです。必ず私たちに善きように、取り計らって下さるのです。その信仰に留まることが大事です。

        (つづく)

                                          2013年2月10日




                                          板橋大山教会   上垣 勝


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