誰の仲間ですか


  鑑賞するだけで絵はこういう風に描けばいいんだ。説教もこういう風に語ればいいんだと納得させられます。
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                                             誰の仲間ですか (下)
                                             ルカ12章8-12節


                              (3)
  さて今日のところで、イエス様は、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」とも語られました。イエスなど「知らない」、自分はそんな者と関係ないという者は、ということです。厳しい言葉ですね。

  ペトロは、大祭司の庭で召使の女に聞かれて、知らないと言ったのではないでしょうか。「人々の前でわたしを知らないと言」ったのは、彼ではなかったでしょうか。他の弟子たちは、知らないとは言いませんでした。尋問される前に、イエスを見捨てて逃げたからです。イエスの仲間だと言わねばならない状況が怖かったのでしょう。彼らは、ペトロのような際どい窮地に立たされませんでしたが、逃げたのですから、「知らない」と言ったと同然です。むしろ捕縛されたイエスを慕って、ペトロと一緒に後を追って大祭司の庭に行く勇気すらない弱虫でした。

  そんな彼らですから、イエスから、「神の天使たちの前で君たちを知らないと言われ」ても、仕方なかったのではないでしょうか。私の仲間ではないと突き放されてもやむを得なかった。そうなれば、イエスと関係はプッツリ切れて一巻の終わりだった筈です。

  ところが、実際にはペトロも他の弟子たちも、そのように扱われず、身を潜めている彼らの所に復活のキリストが入ってきて、「平和があるように」と言われたのです。思ってもみなかった言葉です。十字架のイエスは「この人たちは何をしているのか、分からないのです。彼らをお赦し下さい」と祈られました。それで赦されて、再び仲間として、弟子として活動して行きます。

  そこに、イエスの十字架と復活という事件が介在していますが、この出来事が彼らに決定的な転換をさせたのです。

  ですから、ルカが書いた今日のイエスの言葉の背後に、弟子たち全員が、イエスを知らないと語った痛恨の出来事が横たわっているのは明らかです。ルカは、マタイもそうですが、自分たちの弱さと信仰の挫折を思い、悔いて書いているのは明らかです。助かりたいために逃げたこと、イエスを捨てたことを思い出して慙愧(ざんき)の念をもってイエスの言葉を書いている筈です。ただ、慙愧の念でありながら、イエスの赦しによって圧倒されて、溢れる感謝、喜びをもっても書いている筈です。また、イエスの赦しとそれへの感謝が、彼らの心を厳粛に引き締めたのは確かです。

  またこの福音書が書かれた当時の教会は、「お前は、イエスの仲間か」と問われて、迫害される状況が日常的にあったでしょう。11節、12節はそれを反映していると思います。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

  既にイエスの時代にこういうことが起こりつつあったわけですが、迫害の火はイエス後にもっと激しく燃え上がり、この福音書が書かれた時代にさらに強くなっていました。

  ですから弟子たちはイエスへの躓きを赦されて、一層イエスを捨てて逃げたことを深く悔いて、心引き締めて、大胆にキリストを証ししていったに違いないのです。

  キリストの赦しは甘さでしょうか。赦しは甘さではありません。甘さと考えるなら、まだキリストの赦しの意味が真剣に受け止められていません。キリストの赦しは私たちへの激しい愛です。赦しは十字架です。磔です。赦しと磔は同じコインの裏と表です。赦しは磔と一つだから、弟子たちが再び立ち直った時に、キリストに真実を尽くすようになったのです。

  弟子たちは責められ裁かれるべきところを、イエスが身代わりになり十字架で裁かれた。本当なら裁く方ですが、その裁く者が裁かれ給うたのです。自分は裁かれ、殺された。だが復活すると弟子たちに、「平和があるように」と祝福を持って報われたのです。イエスは敵を愛された。この心を汲みとれば、イエスの愛はしみじみ私たちの心に流れ込んできます。

  昔、青森の弘前にいた頃、郊外に、盛美園という3600坪の広い庭園と建物がある名勝地に行ったことがありました。建物は鹿鳴館時代の和洋折衷の素晴らしいお屋敷です。田舎にはそういう掘り出し物のような宝物が残っています。

  広い庭園を見ているうちに、家内とはぐれまして、「また、勝手にどこかでウロウロしている。いつもなんだから」という気持ちで探していると、鹿鳴館時代の建物辺りで、何か探し物をしているのが見えました。コンタクト・レンズをなくしたらしいです。その頃、家でもよくなくして、その度に私が見つけていました。

  それで、私は遠くから、「またか。ヘマばかり」とか思って眺めていたのですね。嫌だなあと、ため息が出たのですね。結構、私は意地悪でしょ。

  暫く見ていましたら、親切そうなパリッとした身なりの若い男性が近づいて来て、一言交わしたかと思うと妻と一緒に、熱心に探してくれているんですね。声は聞こえませんが、時々何か話しているんです。

  私は、「またか」って、嫌だなあって思っているのに、その男性は「またか」など思っていないらしく、優しいし、親切なんですね。その人の奥さんも近くにいるんですが、奥さんは「あなた、何を嬉しそうにしているの」というような目付きで見ているのが遠目に見えるんです。

  私は、「またか」って思っているもんだから、近くに行きそびれて、若い男性といい雰囲気で探しているでしょ。「私はこの人の仲間ですとか、この人の夫です」とか言えませんよ。それで、遠くからジッと見守っていたんですね。二人をジッと見ているのも、苦しいですよ。

  ただその時に、私は「仲間である」と言い出さなかったことを、今になって告白します。告白しておかないと、神様の前で「私はこの人は知らない」と言われるかも知れませんし。

  冗談めいたことを申しましたが、イエス様は弟子たちを「こいつらは知らない。仲間じゃあない」と言われなかった。裏切ったとも一言も言われなかった。むしろ、「平和があるように」と言われたんです。

  弟子たちがやがて見違えるように変化していったのは、ここに厳粛な赦しがあって、それが彼らを変えたのではないでしょうか。

                              (4)
  イエスは、「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」と言われました。

  繰り返しますが、弟子たちはやがて人々の前で、「知らない」と言ったり、イエスを捨てて逃げるわけですが、これはイエスの悪口を言ったことになるのでしょうか。それとも、聖霊を冒涜したことになるのでしょうか。

  悪口ではないと思います。では、弟子たちは「聖霊を冒涜する者」であったのか。

  聖霊とは神の聖なる霊、キリストの聖なる清き霊です。目に見えないが、私たちの良心に語りかけて下さる主の霊のことです。弟子たちは、イエスがどういう方かを知っていました。それにも拘らず知らないと言ったのですから、彼らの良心に語りかけた聖霊を拒んだということです。

  冒涜ではないかも知れないが、それに近い形で否を言ったのです。侮辱したと言えます。ですから、「聖霊を冒涜する者」と迄はいかないが、それにかなり近い形でイエスを侮辱したのですから、彼らは赦され難いところにあったのは疑いありません。

  裁きは免れ難いのです。だがイエスは赦されたのです。イエスが十字架に架かるほどにご自分を厳粛に裁くことによって、赦されたのです。

                              (5)
  今日の箇所は4節からの続きです。4節から今日の箇所まで、一貫して語られていることは、「恐れるな」です。会堂、権力者や役人、どこに連れて行かれようと、どう言い訳しようか、何を言おうかなど、心配するな。聖霊がその時その時に、語るべきことをお教えくださる。

  その時を信頼して生きよ。前もって案ずるな。神は愛である。生きておられる。あなたは仲間だ、私は決して見捨てることはないと言われるのです。

         (完)

                                          2013年1月20日



                                          板橋大山教会   上垣 勝


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