厳粛な聖餐式(聖体拝領)


                         日本画に見とれ暫くその前でたたずみました。
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                                             誰の仲間ですか (上)
                                             ルカ12章8-12節


                              (1)
  イエスは弟子たちに、「言っておくが、誰でも人々の前で自分を私の仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す」と言われました。

  ここは文語訳聖書では、「我、汝らに告ぐ」という言葉で始まっていました。それは4節でもほぼ同じでした。論語風に言うと、「師、曰(のたま)わく」ということになります。元のギリシャ語でも、イエスの厳かな口調がうかがわれます。

  近年、色々な場面で厳粛さがなくなり、あっても希薄になっています。国会でもクールビズで夏場は簡単な服装にしています。権威主義は時代遅れですが、心の厳粛さを欠いた場面、緊張感が足りない場面が多々起こっているのも事実です。また何でも数で勝負する時代ですから、質より量、大衆受けするものが世にのさばっている感もします。

  しかし人間社会は不思議なもので、大衆がそういう傾向になればなるほど、それと反対のものを求める自覚的な人たちも出てきます。静かな宗教ブームもその一つかも知れません。聖なるもの、厳かなもの、神秘的なもの、量よりも人生の質への求めであったり、郷愁であったりしているようです。不思議ですが、これは日本だけでなくヨーロッパでも似た傾向があります。

  このクリスマスに、73歳の外国人の知人から著書をプレゼントされました。最近家族3代に渡る物語を書いて出版されたようで、笑ったり泣いたり感動して読み終わりました。この婦人はもともとポーランド人で今はイタリアに住むカトリックの方ですが、その厚い本のほんの一部分ですが、初めて聖餐式に与った日の事を書いていました。カトリックでは聖体拝領と言いますが、初めて聖体(聖餐)をいただく初聖体の日、母親が作ってくれた真っ白なドレスを着て、キリストへの信仰を抱いて厳粛な思いでそれに与ったと書いて、一緒に与った少年や青年たちは皆、厳かな祝いの喜ばしさに圧倒されたと記していました。

  それを読んでいて、プロテスタント教会でもキリストの体、その血を意味する聖餐に与る際に、身が引き締まるような厳かさ、祝いの喜ばしさを覚える聖餐式が大事でないかと思いました。キリストの恵みへの厳粛な気持ちを大切にすることが必要だと思ったのです。

  いずれにせよ、イエスの言葉には厳かさ、厳粛と共に喜びがみなぎっています。

          (つづく)

                                          2013年1月20日



                                          板橋大山教会   上垣 勝


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