修道女たちが犯されたとき


          この方の絵はいつも含みがあって考えさせられます。今年も見るのを楽しみにしています。
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                                           一羽の小雀とイエス (上)
                                           ルカ12章4-7節
          
                              (1)
  イエスは弟子たちに、「友人であるあなたがたに言っておく」と言われました。ヨハネによる福音書では、「もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。私はあなたがたを友と呼ぶ」とおっしゃっています。イエスは弟子たちを「友人とか友」と呼ばれたのです。監督と選手がこういう関係だったら、大阪の高校生は自殺しなかったでしょうね。

  イエスは、先生と弟子という日本的な師弟関係でなく、ましてやスポーツの監督と選手の絶対的服従関係でなく、2千年前に、対等の「友人」として接しられたのは驚くべきことです。元巨人軍の桑田さんは、選手は監督から殴られるが、「監督はどんなミスをしても、選手から殴られない」と言っています。なる程と思いました。体罰によっては選手は育たないとも言っているようですが、本当だと思います。

  イエスは私たちを友とされた。ここにキリスト教の一大特徴があると思います。

  友人は対等です。上も下もない。弟子たちも一個の主体を持ってイエスと一緒に考え、決断していく。そういう自分の考えを持った人間を造ろうとされたからでしょう。

  弟子ですから、無論イエスと対話し交わります。イエスは交わりを、イエスとの対話を大事にされました。イエスと一緒に考え、独立的に責任的に生きる人間であるように、各々が置かれた所で、イエスの友として生きるように導いて行かれたと言えるでしょう。

  ある意味で、イエスにべったり寄りかかれば楽かも知れません。新興宗教の教祖はそうさせて無批判的にし、絶対服従をさせるようです。

  しかし、イエスは何も考えず無責任に生きる弟子であって欲しくない。イエスと常に対話して生きる人間であって欲しい。それは、「自分の十字架を負って私に従って来なさい」という言葉にもはっきり現れているように、弟子たちが自覚的に自分の十字架を負っていく生活者でありなさいということです。

                              (2)
  さて、イエスはそれに続いて、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」と言われました。元の言葉の順序は、先ず「恐れるな」とあり、次に、「体を殺す者ども。その後、何もできない者どもを」となっています。

  「恐れるな。」これは聖書のあちこちで鳴り響いているイエスの言葉です。今日の箇所でも「恐れる」、「恐れるな」が4回出てきます。ルカ福音書全体では10数回出てきます。人間は多くの恐れを持っているからでしょう。

  誰しも体を殺すものに対する恐れがあります。私たちのことを考えても、東日本大震災後、血圧が上がったり、不安神経症になる人が急増していると言われますが、人間がいかに恐れや不安を抱きやすい弱い存在かの証拠でしょう。インフルエンザが流行ってきて、私も予防注射をうちました。私は呑気なところと心配性なところがあって、風邪が酷くなって長引くともう治らないと思ってしまったりすることさえあります。

  老いの問題も経済の問題も、原発の問題や病気や失業の問題も、考えの末はすべて死とつながっています。すなわち、「恐れるな」と言われたこととつながっていると言っていいでしょう。

  しかしイエスは、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とおっしゃるのです。無論これは、老いや経済や原発や病気や失業の問題を考える必要はないということではありません。

  人間の体などどうでもいいと言っておられるのではない。肉体を否定して、肉体の死、殺戮など何ら問題ではない、問題にするな、取り上げるな等と暴論を吐いておられるのではありません。具体的に人を愛されたイエスはそんな非現実的な方ではありません。

  ただ、人間を肉体のレベルだけで見ることの浅さです。私たちは死を恐れます。だが、「その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」というふうに殆ど考えないのでないかと思います。

  「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」

  肉体を滅ぼしても、私たちの魂、思想や信条までも支配できない者どもを恐れるな。ここには、何と偉大で崇高なまた勇気を与える思想があることでしょう。死を恐れるのとは違った世界です。

  人間の尊厳の源はここにあります。何者によっても奪われない尊厳の源です。何者も身体を突き抜けてその背後の魂や人格まで手出しできないし、犯すことはできないのです。そのような犯し難い一個の魂として、人は神から造られているという自覚であり、誇りです。

  1600年程前に、アウグスチヌスは「神の国」という大著を書きました。「キヴィタス・デイ」と言われる名著です。なぜ書かれたかというと、ローマ大帝国の首都ローマにゴート族が侵入して、何百年も続く永遠の都とされたローマを略奪し、多くの人が殺されます。それで異教徒たちは、これはキリスト教が国教になったからだと言って攻撃したのです。アウグスチヌスはそれを論駁(ろんばく)してこれを著しました。

  痛々しいことが方々で起こりましたが、その一つは、略奪される中で、神に身を捧げたキリスト教の修道女たちが犯されることが起こりました。それに対してアウグスチヌスはこう書きました。「自分の意志が確固不動であり続けるならば、他人が肉体に対して何をしようと、被害者に責任はない。」今では当然かもしれません。当時は、自殺を持って矜持を保つのが尊いとされていました。だが彼は、たとえ被害者に恥ずかしい気持ちを起こさせたとしても、敵が情欲を抱いていかに彼女たちに淫らなことをし、肉体が陵辱されたとしても、主なる神に仕える彼女たちの清い魂まで汚し、陵辱することはできないと言ったのです。またこう書いています。「二人がその場にいたが、姦淫を犯したのは一人だけだ。」そしてアウグスチヌスは彼女たちに、生き続けよ、自殺するな、主は憐れみ深くその恵みは大きいと書き、励ましたのです。

  「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。誰を恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」

  アウグスチヌスは今日のイエスの言葉から示唆を与えられたのかも知れません。体を殺す者どもがいるかも知れない。だが、殺した者自らが、その後地獄に投げ込まれるであろうということでもあるでしょう。

  彼らは信仰者たちの首を斬り落とせる。だが、魂まで決して斬り落とせぬということです。

  私たちは体を殺す者たちを恐れる必要はないのです。恐れてはならないのです。恐れば恐れるほど付け入られるでしょう。これは病気の場合も、災害が私たちを襲う場合も同じです。死も、死の力も恐れる必要はないのです。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」という箴言の言葉はここでも本当です。

  すなわち、イエスがここで言われるのは、「神のみを神とせよ。真に恐れるべき方を恐れよ」ということです。そうすれば、あなたの不安と恐れは鎮まり、安心が戻ってくる。平安に置かれる。生活がシンプルに単純化され、落ち着きを取り戻し、平和を授けられて生きることができるだろう。それだけでなく隣人への配慮にも富み、愛をもって生きることができるようになるということです。向かうべき所がはっきりすると不安が消え、健康が戻ってくるのです。

        (つづく)

                                          2013年1月13日




                                          板橋大山教会   上垣 勝


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